Apr 06

東北から病室まで 

2017年4月6日 朝霧

 三月、ふと思い立ち東北へ行った。初日は新幹線で一関まで行き、電車やらBRTやらを乗り継いで、陸前高田の「奇跡の一本松」を観た。低い土地はおおかたすべて流されてしまったか破壊され片付けられてしまったのだろう、陸前高田の役所のあたりから下っていくと、一面砂漠のような土木工事現場であり、風と大型トラックが土埃を舞い上げていた。大地から造り直しているのだ。一本松はその先にあった。平日だからかいつもなのかは知らないが閑散としており僕の他は家族の一組だけであった。家族の祖父はハーモニカで「花は咲く」を吹き、母と息子は一本松の前で写真を撮り、なにやら語らっていた。木、ユースホステルだったという建築や中学校の遺構。何も感じないわけではない。たとえば、人間の矮小さ。使い古された比喩だが、やはり人間は、寄生虫じみている。皮膚にはりつく寄生虫、気づかれぬよう、少しずつ身体を蝕むが、一払いで潰されてしまう――そのように生きるしかない、もちろん。ぼろぼろの観光客ノートが置いてあった。何か興味深い書き込みがあるかもと思いめくったが本当につまらないものだった。

 その日は石巻に泊まった。石巻までもまた遠かった。石巻である必要もなかった。なぜ石巻に泊まったのだろう? 夜の石巻は驚くほど寒かったが、同じ電車に乗り合わせて同じく石巻で降りた女子高生のスカートもまた驚くほど短かった。東京ではもうあのようなミニスカートは見ない。スカートの短さとスクールカーストは比例するというような俗説が頭をよぎった。俗説だろうが、僕の中学生だった頃は、それはリアルだった。本当にもうほとんど常に下に穿いているものの見えている先輩がいて、友人と笑っていたことを思い出した。

 翌朝やはり海の方まで行った。陸前高田よりも補修は進んでいるようであった。松島を観にも行ったが特に語ることはない。

 仙台でSNSで知り合った方と会った。同世代の、趣味の良い男性。コーヒーショップに連れていってくれた。演劇の話、音楽の話、研究の話(いわゆる文系理系トーク)。

 翌日、いわきまでバスで移動した。子供の声ばかり聞こえた。子供しかしゃべっていなかった。後方では母親とおそらく言葉だけでままごとをしたり、父親を起こそうとしたりする女の子の声。前方では姉が妹の髪を結おうとして三〇分はいじっていた。退屈だったのだろう。やがて妹はスマートフォンでゲームを始め、おそらく難しいところをやってもらおうと姉に渡そうとしたが、突き返されていた。

 いわきでは『タイムライン』というミュージカルを観た。その感想は別に書いたので省くが、ともかく中高生の歌い踊る舞台である。子供、中高生――そういえば昨日仙台の喫茶店でおもしろい話を盗み聞きした。話していたのはどうも高校を卒業したばかりの女子三名であったが、そのうちの一人によれば、通っていた学校に、鳴らしてはいけない、鳴らしたら鳴らした者のみならず聞いた者まで志望校に落ちる、そういう鐘か鈴かがあったらしい。そしていつか卒業生たちがおおいに鳴らしているのをその女子は聞いたことがあり、ならばと思い自分も鳴らしたら先生にひどく叱られたという。どこかに聞き間違いがあるかもしれない。いったいどういう鐘か鈴なのか、どういう場所にあるのか、まったくわからない。しかしこの話の理不尽さには覚えがある。

 子供、中高生――僕にもそう呼ばれる時期があったが、自身のことを思い出してもやはり、あれは、理不尽な季節である。理由もわからず、縛られ、傷つけられる、あるいは傷つけなければならない。おそらく誰にとってもあれはそういう季節だ。

 夜、夕食と書店を求め街を歩いた。もちろん旅先だからだろうが、いわきは、地方都市らしい情緒ある好い街だと感じた。

 朝、まったく食欲がなかった。朝食にと買っておいたパンはすべて手をつけずに置いてきてしまった。

 特急はやがて東京に入り、雨が降っていたが、傘を差し、黒い服を着た一団が墓参りをしているのを車窓に見た。少し遅いが彼岸参りか、あるいは黒い服を着ていたし誰かの死んだばかりであったのかもしれない。墓参りを集団は少ししてからもまた見た。東京、数千万の人間を抱えるこの都市で、死に、骨となって累積されていく膨大な人々。昼を過ぎても食欲はなく、お菓子を一つ食べただけであった。

 翌日から熱とひどい咳で寝込んだ。熱は三日続いた。仕事も休んだ。その翌日と翌々日は仕事に出たが、症状はなくても身体はだるく、その夜、腹部の激痛で病院へ行き、そのまま入院することになった。

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Mar 26

福島の今、過去から未来へ――チャレンジふくしまパフォーミングアーツプロジェクト『タイムライン』藤田貴大

2017年3月26日 朝霧

タイムラインフライヤー
チャレンジふくしまパフォーミングアーツプロジェクト『タイムライン』
演出:藤田貴大、音楽:大友良英、出演:ふくしまの中学生・高校生

1 福島の今

 『タイムライン』において、「なんともない日々の わたしたちのタイムライン」から始まる、フライヤーにも掲載されている台詞が、繰り返し発せられる(それは音楽や舞台上を動き回り歌う少女たちの声に掻き消され聞き取ることが困難なときもあるが、当日も(なぜか二枚)配布されるフライヤーによって観る者に刻み込まれたこの台詞は、「聞こえる」)。そして主に演じられるのは、「おはよう」から始まり、学校で、時間割に沿って、見慣れないルールに従っているらしいゲーム(そのルールは観ているだけで理解できるものもあれば、理解できなかったものもあった。コミュニケーションと運動量を伴う、何度か見たことのある劇団が開演前や稽古前に行う「アップ」にも似ているように思うのだが、そういったゲームである)を行い、そして「おやすみ」で終わる、繰り返される日常だ。明日も学校、と少女たちは言う。昨日も今日も明日も、「おはよう」から始まり、学校に行き、「おやすみ」で終わる一日なのだ。そして、演じられるその日は、「あの日」と呼ばれている。
 福島県いわき市での公演。「あの日」「3月」「海が見える」――そうした台詞は私たちに、ある特定の日付を思い出させる。あの日、地震とそれに続く津波によって、いわき市でも多くの犠牲者が出た。その後の原子力発電所での事故も、市民に多大な影響を与えた。『タイムライン』は私にあの日を思い出させた。
 「あの日」「3月」「海が見える」といった台詞からあの日を思い出した私は、そこで、地震と津波を半ば「期待」していたと言えるだろう。あの日、そうした日常が、崩れ去ったことを知っているからである。このミュージカルにおいてあの日がどのように描かれるのか、僕は半ば「期待」していた。
 しかし、地震は起こらない。
 ‪劇中の「あの日」とは、素直に観れば、私たちの共有するある特定の日付、あの日、ではないようである。その日、地震は起こらない。少女たちは何事もなく学校の時間割を消化し、帰り、明日も学校、などと呟き、眠る。「冬型の気圧配置、強めの寒気‬」と歌い、ミュージカルは終わる。
 しかし考えてみれば、なぜ僕は少女たちの「あの日」という言葉から、あの日を思い出したのだろう? 福島県の中高生の少女たち(楽器隊には男子もいて、なかなかの存在感であったが)は、舞台上で中学生を演じていた。演者の年齢と役の年齢が重なっていたわけである。であれば、彼女たちは現在(そういえば「福島の今をどのように演じるか」というようなことを開演前に福島県副知事が挨拶の中で言っていた)の範囲に含まれる「あの日」を演じていると考えることができそうだ。あの日から6年(初演は去年であり、5年後なのだが)、あの日には小学生だった子供たちが中高生になっている、そういう現在である。
 非日常、劇中の台詞の言葉を用いれば「タイムライン」から抜け出す時間も描かれる。夜中、「おやすみ」の後で、少女たち三人が、川に沿って歩き、海を見に行くのだ(見たいときがある、というようなことを少女の一人が言うが、そういう動機でである)。海を見ながら、「明日も学校か」と少女の一人が呟く。6年後の「3月」に、彼女たちは海を見に行った。そのように見ると、その気持ちも想像することができる。

2 過去から未来へ

‪ 藤田貴大は2015年頃から未来を描こうとしているようだ(関連記事)。『タイムライン』も、未来を描こうという試みのようだ。
 『タイムライン』には、今は過去にとっての未来、未来にとっての過去、というような台詞があった。現在、「なんともない日々」の「繰り返し」である現在が、過去にとっての未来であり、未来にとっては過去であるという、どこかで見聞きしたことのあるような言葉ではあるものの、象徴的な台詞だ。
 この台詞のように、「繰り返し」が、‬過去と未来を繋ぐものとなっているようである。藤田貴大/マームとジプシーの代名詞ともなっているいわゆる「リフレイン」は、あくまで過去の再来であったと言えるだろう。藤田貴大が未来を描くことに困難を感じていたのは、彼の核心的手法である「リフレイン」が過去にフォーカスを当てるものであったからだと思われる。
 では、今作ではどうだったか? 確かに繰り返される台詞、「リフレイン」的演出はあった。しかし、描かれたのは「おはよう」から始まり「おやすみ」で終わるただ1日であり、その1日自体は「リフレイン」されない。しかしその1日は、少女たちの台詞によれば、繰り返される――「繰り返し」としての日常は、これまでも繰り返されてきたという意味で、過去の再来であり、これからも繰り返されるという意味では確かに、未来でもある。『タイムライン』は、「なんともない日々」の「繰り返し」という言葉によって、未来を描いている。
 日常、「なんともない日々」の「繰り返し」は、突如断ち切られることを、私たちは知っている。しかしそれでも、私たちが、6年後の今、6年後の今なりの「繰り返し」を生きているのも確かであり(もちろん未だ非日常を生きている者も大勢いる。それを忘れてはならない)、「繰り返し」を生きるしかない、夜中に海を見に行くといったような小さな抜け出し方しかできないというのもまた、確かである。未来とは、実は「繰り返し」に過ぎない、のかもしれない。逆に言えば、「繰り返し」こそが、そもそも厳密に「繰り返し」であるはずもなく(関連記事)、未来そのものなのだ。

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Mar 16

入試国語現代文への二つのアプローチ――『現代文 標準問題精講』

2017年3月16日 朝霧

 私は自身の勉強として現代文の参考書を用いたことがない。現代文で困ったことがないからだ。他の教科に時間をかけた方が効率が良かった。しかし、そうしたこともあってか、進学塾で国語を教えてみると困った。参考書を用いたことがない、それどころか、まともに授業を受けたこともない現代文を、どう教えればいいのかわからなかったのだ。そこで諸先輩のお話を聞いたり、書店で参考書を立ち読みしてまわり、何冊かを購入し熟読し、今では何とかいくらかは成績を上げられる授業を行えているように思うが、その中で気づいたこととして、入試国語現代文には二つのアプローチが存在するようである。
 入試国語現代文には二つのアプローチが存在する。これは、無論確定的な真実などではなく、今の予備校や進学塾、そこの各講師が、方針として、二つの面から指導をしているようだ、ということである。その二つとは、技術面からのアプローチと、内容面からのアプローチだ。
 例えば、私の手持ちの参考書(ちなみに、当たり前といえば当たり前だが、私は「良い」「使える」と思った参考書しか手元に置かない。「手元にある」とはだから「おすすめ」も意味する)から例を挙げれば、石原千秋の『中学入試国語のルール』『教養としての大学受験国語』などは、内容面からのアプローチが中心になっている。内容面からのアプローチとは、すなわち、入試でよく出るテーマ(入試国語的に言えば説明文の「主旨」物語文の「主題」)の思想的核をつかみ、文章の内容を理解できるようにすることで、点数を上げようという考え方である。手元にはないが、例えば『ことばはちからダ!現代文キーワード―入試現代文最重要キーワード20』『現代文キーワード読解』『読解 評論文キーワード:頻出225語&テーマ理解&読解演習50題』もこの類の参考書である。
 一方で、技術面からのアプローチとは、どのような文章を読むときにも使える読解の技術(実際には説明文を読む際の技術・物語文を読む際の技術と二分される)を身に付け、点数を上げようという考え方である。手元にあるものでは、『中学国語 出口のシステム読解―基礎から入試まで!』等の出口汪の著作、中学受験生の「ママ」向けの本だが『SS-1メソッドで国語の点数を一気に上げる!』、大学受験だと『宗先生の現代文の力を底上げする本』が、技術面中心の参考書となっている。
 どのような文章を読むときにも使えるというと、後者の方が手っ取り早く点数を上げられそうではあるが、経験から言えば、技術だけで文章を読むのは実際には(特に小中学生には)かなり難しく、内容面からのアプローチも点数を上げるためには重要だ。中学受験の世界で権威のある(多くの進学塾が採用している)四谷大塚のテキストも、この両面からの指導に使えるように作られており、おそらくどの進学塾でも、この両面からのアプローチが行われている。そして、序文が長くなったが、今回紹介する神田邦彦『現代文 標準問題精講』(旺文社、2015)も、この両面から指導する、大学入試現代文の参考書である。そして、良書である。
 この参考書には四十の問題文(本書は「素材文」と呼ぶ、選び抜かれた文章である)が掲載されている。そしてそれぞれに、「他の文章でも利用できる『汎用性のある読解技術』」を講義する「素材文の読みほどき」と、「素材文」の内容から得られる「知識・教養・考え方」を講義する「素材文の噛み砕き」の二つの部分からなる解説が付されている。これが、まさにここまで述べてきた「技術」と「内容」に相当するわけだが、そのレベルが共にとても高い。指示語、接続語、文末表現などの細部から大きな構造の読み取りまで、「技術」として必要なところは網羅され、そして例を挙げつつ丁寧に説明されている。そして「日本文化」「近代化」、二項対立やテクスト論など、入試において出題されやすいテーマ、読解を助ける思考法が、標準的な「知識・教養・考え方」を提供する「素材文」の選択と解説によって、やはり網羅されている。
 国語の参考書は数あれど、二つのアプローチを十分に満たした参考書は珍しい。『現代文 標準問題精講』は、現代文に困る大学受験生はもちろん、現代文なんて余裕だと思っている受験生、現代文は伸ばせないと思っている受験生に、特に手にとってみてほしい本である。今後の教育改革で、入試現代文において試される力はより高度なものとなるだろう。私のように、なんとなく点数を取れていた学生には厳しい時代になるはずだ(もちろん、そういう学生がきちんと現代文を勉強する羽目になるのは、良いことだ)。誰もが、きちんとした国語の力を身に付けていく必要のある時代なのである。
 

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Jan 10

高校演劇サミット2016

2017年1月10日 朝霧

‪こまばアゴラでやっていた高校演劇サミットという企画で、都立駒場高校、甲府南高校、精華高校の演劇を観た。それぞれについて思ったことのメモを記しておくが、我ながら、彼らを高校生として見てしまっている、上からのコメントになっている。まあ彼らは高校生なので高校生として見てしまうのは仕方ないと、我ながら思いもするのだが、上から見てしまうのは失礼だという気持ちが起こるくらいには、彼らの演劇はどれも大変に素晴らしかった。よく聞く言い訳だが、大前提として、どれもものすごくレベルが高く、おもしろかった。また三校を連続で観たのでどうしても比較して語ってしまうのも、それぞれ単体でじっくり観てもおもしろく、語れるものであったはずなので、もったいない気がしなくもない。

高校演劇なるものははじめて観たのだが、ふつうに演劇を楽しむのと同様にも楽しめるし、高校演劇という文脈からも楽しめるし(今回その文脈を最も活かしていたのは甲府南の脚本である)、高校生の演劇としても楽しめる(卒業、部活、人間関係、家庭――三校とも、そうした高校生のリアルのようなものを感じさせる演劇となっていた。)。今さら、大変に豊潤な世界を知ってしまった……。

都立駒場高校『かわいそうのうそ』

一時間の枠に幅広い感情の上下(「江戸ザイル」のアイドル的多幸感のあるパフォーマンスから、DVの話まで)があり、観る者の感情を揺さぶる。例えば「わたし、みんなといる今が一番楽しいんだ!」「好きな人といっしょになる」「私の夢を、私が叶える」「お父さんの命の分、俺は生きる」というような物語のクライマックスの台詞が、彼ら演劇部員のリアルな感情と想像されるものと重なる。そして、みんなといっしょに生きるために母と見なされていた観音像を破壊するという物語の結末が、彼ら高校生の心理的離乳と想像されるものと重なる。その巧みな脚本に何より感動したのだが、‬大勢の役者を(おそらく)全員使うという姿勢もすばらしく、そして全員が統制のとれたうねりとなって上演を動かしていく演出の巧みさ、それについていく役者が、またとんでもなくレベルが高い(難しい集団芸をいくつもこなし、大道芸的おもしろさがある)。

作・花井紗代子と演出・隅山侑衣子は主演、副主演でもあり、好演を見せていた。この脚本、演出が高校演劇の平均的なものだとは信じたくなく(しかし大会では本作は勝ち進んでいないようである……)、相当な技術を持った特別な二人だったのではないかなぁと思いたいのだが、しかし、その個人技だけでは、このような芝居はできない。変な話だが、高度な集団芸を成立させる部活動としての質の高さを感じる芝居であった(アップの様子、カーテンコール後の音響照明の紹介からも)。

県立甲府南高校『歩き続けてときどき止まる』

顧問の中村勉先生の脚本ということだが、メタ高校演劇的ネタ、演劇部ネタがおもしろく、また「コミュ障」という十代後半の若者にはす身近すぎるテーマに、高校生以上の高校生目線を感じた。大きな演出があるわけではないが、それぞれの役者が要所要所で細かいニュアンスを正確に再現し、物語らしい物語のない脚本なのだが、おもしろく観ていられる。そして、詩人の力を借り、挿入されていた個人史的なばらばらの断片を合唱に落とし込む脚本に技術を感じるし(それは、技術で無理やり落とし込んだ、とも言える。おもしろく観てはいられたが、まとまりを欠いていたという印象は残った。)、また等身大で歌う高校生たちに、感動しないはずがない。精華のように派手に活躍している役者はいなかったが、それは高校生であることを利用できているということでもある。

精華高校『大阪、ミナミの高校生』

大阪のイメージを極めて意識的に用いた脚本であり、役者たちであった。とにかく役者(特に三年生たち)のレベルが高く、即興的小芝居、観客の掴み方はプロの腕前である。

脚本は生徒とプロの合作のようだが、『歩き続けて〜』と同様に個人史的な断片が挿入され、それらが通奏低音のごとく芝居の雰囲気を作り上げていくのだが、『歩き続けて〜』以上に、単なる断片としてで終わってしまっているように私は感じた。また、物語においても(物語部分と個人史と思われる部分の境目はかなり曖昧なのだが。そしてその曖昧さをきちんと曖昧に演じる役者の上手さよ!)、物語は最終的にはある登場人物たちの結婚で幕を閉じるのだが、例えば塚本このみという女優(高校生にこういうことはあまり言いたくないのだが、大変美人である。それだけでなく役者としてのレベルも相当なのだが)が演じるキャラクターに増えていくケガ、他には、転入生の細かな設定など、細かく設定されているにも関わらず、物語にはほとんど関わらず、雑音のようにしか感じられなかった。もしかしたらそれら断片や設定は、作り手にとっては切実なものなのかもしれないが(もしかしたら下敷きとなっている作品由来なのかもしれないが)、切実なものをそのままのせれば伝わるわけでもないのだなぁ、などと考えさせられた。

作り手側の切実さ、は三作すべてから感じたものでもある。というよりは、三作すべて、演劇の虚構から、作り手、あるいは役者の切実なリアルへと突き抜けていくような脚本を持っていた。偶然なのか、高校演劇の特色なのかはわからないが、個人的には、そうして高校生の切実なリアル(と想像されるもの)へと突き抜けていく構造を持った演劇の方が、高校演劇として見れば、高く評価してしまうような気がする。彼らは卒業していく。高校の名の元に演じられる切実さは、その高校の演劇部に確かに存在した人間のものでありながら、その人間たちはその高校から離れていく。その刹那性が、また感動的である。

(駒場と精華で家庭内暴力というモチーフが共通しているのもおもしろい)

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