Mar 16

入試国語現代文への二つのアプローチ――『現代文 標準問題精講』

2017年3月16日 朝霧

 私は自身の勉強として現代文の参考書を用いたことがない。現代文で困ったことがないからだ。他の教科に時間をかけた方が効率が良かった。しかし、そうしたこともあってか、進学塾で国語を教えてみると困った。参考書を用いたことがない、それどころか、まともに授業を受けたこともない現代文を、どう教えればいいのかわからなかったのだ。そこで諸先輩のお話を聞いたり、書店で参考書を立ち読みしてまわり、何冊かを購入し熟読し、今では何とかいくらかは成績を上げられる授業を行えているように思うが、その中で気づいたこととして、入試国語現代文には二つのアプローチが存在するようである。
 入試国語現代文には二つのアプローチが存在する。これは、無論確定的な真実などではなく、今の予備校や進学塾、そこの各講師が、方針として、二つの面から指導をしているようだ、ということである。その二つとは、技術面からのアプローチと、内容面からのアプローチだ。
 例えば、私の手持ちの参考書(ちなみに、当たり前といえば当たり前だが、私は「良い」「使える」と思った参考書しか手元に置かない。「手元にある」とはだから「おすすめ」も意味する)から例を挙げれば、石原千秋の『中学入試国語のルール』『教養としての大学受験国語』などは、内容面からのアプローチが中心になっている。内容面からのアプローチとは、すなわち、入試でよく出るテーマ(入試国語的に言えば説明文の「主旨」物語文の「主題」)の思想的核をつかみ、文章の内容を理解できるようにすることで、点数を上げようという考え方である。手元にはないが、例えば『ことばはちからダ!現代文キーワード―入試現代文最重要キーワード20』『現代文キーワード読解』『読解 評論文キーワード:頻出225語&テーマ理解&読解演習50題』もこの類の参考書である。
 一方で、技術面からのアプローチとは、どのような文章を読むときにも使える読解の技術(実際には説明文を読む際の技術・物語文を読む際の技術と二分される)を身に付け、点数を上げようという考え方である。手元にあるものでは、『中学国語 出口のシステム読解―基礎から入試まで!』等の出口汪の著作、中学受験生の「ママ」向けの本だが『SS-1メソッドで国語の点数を一気に上げる!』、大学受験だと『宗先生の現代文の力を底上げする本』が、技術面中心の参考書となっている。
 どのような文章を読むときにも使えるというと、後者の方が手っ取り早く点数を上げられそうではあるが、経験から言えば、技術だけで文章を読むのは実際には(特に小中学生には)かなり難しく、内容面からのアプローチも点数を上げるためには重要だ。中学受験の世界で権威のある(多くの進学塾が採用している)四谷大塚のテキストも、この両面からの指導に使えるように作られており、おそらくどの進学塾でも、この両面からのアプローチが行われている。そして、序文が長くなったが、今回紹介する神田邦彦『現代文 標準問題精講』(旺文社、2015)も、この両面から指導する、大学入試現代文の参考書である。そして、良書である。
 この参考書には四十の問題文(本書は「素材文」と呼ぶ、選び抜かれた文章である)が掲載されている。そしてそれぞれに、「他の文章でも利用できる『汎用性のある読解技術』」を講義する「素材文の読みほどき」と、「素材文」の内容から得られる「知識・教養・考え方」を講義する「素材文の噛み砕き」の二つの部分からなる解説が付されている。これが、まさにここまで述べてきた「技術」と「内容」に相当するわけだが、そのレベルが共にとても高い。指示語、接続語、文末表現などの細部から大きな構造の読み取りまで、「技術」として必要なところは網羅され、そして例を挙げつつ丁寧に説明されている。そして「日本文化」「近代化」、二項対立やテクスト論など、入試において出題されやすいテーマ、読解を助ける思考法が、標準的な「知識・教養・考え方」を提供する「素材文」の選択と解説によって、やはり網羅されている。
 国語の参考書は数あれど、二つのアプローチを十分に満たした参考書は珍しい。『現代文 標準問題精講』は、現代文に困る大学受験生はもちろん、現代文なんて余裕だと思っている受験生、現代文は伸ばせないと思っている受験生に、特に手にとってみてほしい本である。今後の教育改革で、入試現代文において試される力はより高度なものとなるだろう。私のように、なんとなく点数を取れていた学生には厳しい時代になるはずだ(もちろん、そういう学生がきちんと現代文を勉強する羽目になるのは、良いことだ)。誰もが、きちんとした国語の力を身に付けていく必要のある時代なのである。
 

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Jan 10

高校演劇サミット2016

2017年1月10日 朝霧

‪こまばアゴラでやっていた高校演劇サミットという企画で、都立駒場高校、甲府南高校、精華高校の演劇を観た。それぞれについて思ったことのメモを記しておくが、我ながら、彼らを高校生として見てしまっている、上からのコメントになっている。まあ彼らは高校生なので高校生として見てしまうのは仕方ないと、我ながら思いもするのだが、上から見てしまうのは失礼だという気持ちが起こるくらいには、彼らの演劇はどれも大変に素晴らしかった。よく聞く言い訳だが、大前提として、どれもものすごくレベルが高く、おもしろかった。また三校を連続で観たのでどうしても比較して語ってしまうのも、それぞれ単体でじっくり観てもおもしろく、語れるものであったはずなので、もったいない気がしなくもない。

高校演劇なるものははじめて観たのだが、ふつうに演劇を楽しむのと同様にも楽しめるし、高校演劇という文脈からも楽しめるし(今回その文脈を最も活かしていたのは甲府南の脚本である)、高校生の演劇としても楽しめる(卒業、部活、人間関係、家庭――三校とも、そうした高校生のリアルのようなものを感じさせる演劇となっていた。)。今さら、大変に豊潤な世界を知ってしまった……。

都立駒場高校『かわいそうのうそ』

一時間の枠に幅広い感情の上下(「江戸ザイル」のアイドル的多幸感のあるパフォーマンスから、DVの話まで)があり、観る者の感情を揺さぶる。例えば「わたし、みんなといる今が一番楽しいんだ!」「好きな人といっしょになる」「私の夢を、私が叶える」「お父さんの命の分、俺は生きる」というような物語のクライマックスの台詞が、彼ら演劇部員のリアルな感情と想像されるものと重なる。そして、みんなといっしょに生きるために母と見なされていた観音像を破壊するという物語の結末が、彼ら高校生の心理的離乳と想像されるものと重なる。その巧みな脚本に何より感動したのだが、‬大勢の役者を(おそらく)全員使うという姿勢もすばらしく、そして全員が統制のとれたうねりとなって上演を動かしていく演出の巧みさ、それについていく役者が、またとんでもなくレベルが高い(難しい集団芸をいくつもこなし、大道芸的おもしろさがある)。

作・花井紗代子と演出・隅山侑衣子は主演、副主演でもあり、好演を見せていた。この脚本、演出が高校演劇の平均的なものだとは信じたくなく(しかし大会では本作は勝ち進んでいないようである……)、相当な技術を持った特別な二人だったのではないかなぁと思いたいのだが、しかし、その個人技だけでは、このような芝居はできない。変な話だが、高度な集団芸を成立させる部活動としての質の高さを感じる芝居であった(アップの様子、カーテンコール後の音響照明の紹介からも)。

県立甲府南高校『歩き続けてときどき止まる』

顧問の中村勉先生の脚本ということだが、メタ高校演劇的ネタ、演劇部ネタがおもしろく、また「コミュ障」という十代後半の若者にはす身近すぎるテーマに、高校生以上の高校生目線を感じた。大きな演出があるわけではないが、それぞれの役者が要所要所で細かいニュアンスを正確に再現し、物語らしい物語のない脚本なのだが、おもしろく観ていられる。そして、詩人の力を借り、挿入されていた個人史的なばらばらの断片を合唱に落とし込む脚本に技術を感じるし(それは、技術で無理やり落とし込んだ、とも言える。おもしろく観てはいられたが、まとまりを欠いていたという印象は残った。)、また等身大で歌う高校生たちに、感動しないはずがない。精華のように派手に活躍している役者はいなかったが、それは高校生であることを利用できているということでもある。

精華高校『大阪、ミナミの高校生』

大阪のイメージを極めて意識的に用いた脚本であり、役者たちであった。とにかく役者(特に三年生たち)のレベルが高く、即興的小芝居、観客の掴み方はプロの腕前である。

脚本は生徒とプロの合作のようだが、『歩き続けて〜』と同様に個人史的な断片が挿入され、それらが通奏低音のごとく芝居の雰囲気を作り上げていくのだが、『歩き続けて〜』以上に、単なる断片としてで終わってしまっているように私は感じた。また、物語においても(物語部分と個人史と思われる部分の境目はかなり曖昧なのだが。そしてその曖昧さをきちんと曖昧に演じる役者の上手さよ!)、物語は最終的にはある登場人物たちの結婚で幕を閉じるのだが、例えば塚本このみという女優(高校生にこういうことはあまり言いたくないのだが、大変美人である。それだけでなく役者としてのレベルも相当なのだが)が演じるキャラクターに増えていくケガ、他には、転入生の細かな設定など、細かく設定されているにも関わらず、物語にはほとんど関わらず、雑音のようにしか感じられなかった。もしかしたらそれら断片や設定は、作り手にとっては切実なものなのかもしれないが(もしかしたら下敷きとなっている作品由来なのかもしれないが)、切実なものをそのままのせれば伝わるわけでもないのだなぁ、などと考えさせられた。

作り手側の切実さ、は三作すべてから感じたものでもある。というよりは、三作すべて、演劇の虚構から、作り手、あるいは役者の切実なリアルへと突き抜けていくような脚本を持っていた。偶然なのか、高校演劇の特色なのかはわからないが、個人的には、そうして高校生の切実なリアル(と想像されるもの)へと突き抜けていく構造を持った演劇の方が、高校演劇として見れば、高く評価してしまうような気がする。彼らは卒業していく。高校の名の元に演じられる切実さは、その高校の演劇部に確かに存在した人間のものでありながら、その人間たちはその高校から離れていく。その刹那性が、また感動的である。

(駒場と精華で家庭内暴力というモチーフが共通しているのもおもしろい)

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Nov 14

山戸結希の『溺れるナイフ』

2016年11月14日 朝霧

山戸結希監督『溺れるナイフ』は、小松菜奈、菅田将暉、重岡大毅、上白石萌音といった今をときめく俳優陣と、いかにも流行の量産される少女漫画原作の映画然とした予告映像と宣伝で、正直不安もあったのだが、山戸結希はその個性の鋭さをまったく失っておらず、むしろ磨きをかけていた。

鮮烈な色彩感覚とシーン構成、画面構成。どこか受動的に、外部の、あるいは内部の制御できぬ力に引っ張られるように動き、走る(それは踊っているようにも見える)少女や、それを映すカメラの揺れが演出する不安定さ。観る者に緊張感を与え、あるいは陶酔させるそれらは、山戸結希がそれこそ最初から持っていた武器である。本作はそこに、少女を乱暴に引っ張り、少女を追いかけ、少女から逃げ回る少年が加わることで、極めてエロティックな映像になっている。少女と少年が互いに引かれ合い反発し合い、あるいは共に落ちていく映像は、観る者にセックスを思わせる。そして物語上二人がセックスをする場面で、それが直接映し出されることはないが、その場面でそこに至るまでの映像が反復されることで、彼らが繰り返していたことが象徴的にセックスであったことを、改めて認識させられる。

抑えたように見えるところもある。山戸結希は冒頭に記述したような特異な映像の他に、その特異な台詞回しもよく知られていた。様々な形容のされ方があるが、私に言わせれば、形式としては書き言葉のような、内容としては、素人の哲学のような、あるいはJ-POPの歌詞のような、「少女漫画のモノローグ」のような、長く、俳優が対話の場面で発する台詞としては不自然であり、それ故に異化効果のある、そのような台詞である。そうした台詞はこれまでの山戸結希の映画においては、少女たちによってとうとうと語られ、その台詞として不自然な台詞は俳優の演技を崩しかけもし、それもまた映画に不安定さ(無論、絶妙なバランス感覚のもと)を与える。そのような長い台詞は、『溺れるナイフ』においては「少女漫画のモノローグ」として普通に見られる程度にしか見られなかった。

だからといって、台詞回しが「自然」だとは思えない。映画において、原作漫画の台詞をそのまま使っていると思われるところがある。漫画の台詞は無論、書かれた言葉であり、漫画に書かれた対話を声に出してみても、自然な対話にはならない場合が多い。おそらくはそうした台詞、対話を、あえてそのまま俳優に言わせ、そうした台詞を「自然」に言うことの困難さが、俳優の演技を不安定にし、観客には聴覚的な異化効果をもたらす。そうした台詞の使い方は、やはり、これまでの山戸結希の台詞の使い方と同様である。しかし、長く、あからさまで、頻繁で、異化的な台詞でありながら例えば『5つき数えれば君の夢』では鈍り飽きさせもしたこれまでの作品における台詞と比べれば、『溺れるナイフ』においてはそれはより密かに的確に差し込まれ、故に鋭いままである。

そしてまた、原作に沿っているのであろうその物語の主題も、極めて山戸結希的であるように思う。小松菜奈や菅田将暉らが演じるのは、「武器」を持っている若者だ。それは、美しさであり、自由であり、可能性だ。傲慢に、自らの無限の可能性を信じる少女と、その成長と共に失われるもの――それは山戸結希の繰り返し描いてきた主題であるが、本作においても監督はそうした主題を描きつつ、新たに、少年を加えてもいる。

小松菜奈演じる夏芽はその美貌で一流写真家の目にとまる。そしてその美しさゆえに、村の名家の息子であり、自由奔放で恐い物知らずの菅田将暉演じるヒーロー・コウの愛を得る。彼女は「きれいだ」と言われれば首を振るが、その実、自分の美しさを自認して芸能活動をし、また、コウと重岡大毅演じる大友との間で、どちらかを選ぶという立場にいることも自認している(だからこそ、大友に「好きにならないよ」などと言える)。また、コウも、家の名のもと、自分が何をしても許されるということを自認している。夏芽に愛される資格があることを自認している。そして、映画に登場する若者たちは、いや、若者というものは、可能性に満ちあふれている。

それはもちろん、「傲慢さ」と呼ばれかねないものである。だが、美しく、自由で、可能性に満ちあふれた若者とは、傲慢さとは切り離せぬ存在であろう。それは、映画の冒頭のモノローグで、高らかに宣言されてもいる。

そのころ 私はまだ15歳で
全てを知ることができる
全てを手に入れることができる
全てを彼に差し出し
共に笑い飛ばす権利が
自分にのみあるのだと思い込んでいた

そして、美しさ、自由、可能性ゆえに傲慢な若者、若者の傲慢さを持つ彼/女らが、成長しなければならないとき、まっさきに失わなければならないものがある。それは、可能性だ。若者の美しさも自由も、やがては失われるものに違いない(若くて綺麗なうちに撮ってもらえ、と夏芽の母は言う)。しかし、映画においてまず失われるのは可能性である。夏芽は、東京で女優として生きるために、コウや大友と田舎で生きていく可能性を捨てる必要があったのである。

映像の手法も、物語の主題も、監督のこれまでの仕事から引き継がれているものだ。しかし『溺れるナイフ』は、これまで以上の完成度で作り上げられている。『溺れるナイフ』は、これまでの山戸結希の映画を超えた、山戸結希の映画である。

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Nov 08

森見登美彦『夜行』のホラー

2016年11月8日 朝霧


 森見登美彦の『夜行』を読んだ。正直に言って森見登美彦のこれまでの小説の方が好きだ。しかし、やはりよくできている。

 小説は第一夜〜題五夜の五つの章に分かれている。それぞれの章に、尾道、奥飛騨、津軽、天竜峡、鞍馬と、由緒ある地名の名がつけられていて、その内容も、その土地を舞台とするものになっている。その五つの章の始まる前にもテキストがあり、そこでは、英会話スクールの友人グループが、長谷川というやはりそのグループの一員であった女性の失踪以来十年ぶりに集まった経緯が語られる。そしてその後の第一夜〜題四夜は、「私」がかつて通っていた英会話スクールの友人たちの思い出話として語られ、最後の「鞍馬」は、十年ぶりに集まり、四人が思い出を語った後、鞍馬に向かうところから語られ始められる。

 それぞれの章に書かれているのは、それぞれが旅先で体験した「思い出」ということになっている。それは、第一夜の前の「思い出を語り始めた」という「私」目線の語りや、それぞれの章の冒頭部分で(「◯◯は語り始めた」「◯◯の話だ」といった形で)明示されている。しかし、そのように思って最終話を読むと、違和感がある。その違和感は、すぐに不気味さとなる。この小説の前情報に引きずられているかもしれないが、紛れもなくホラーだ。

 第五夜、「私」が、以下のように語るのである。

 中井さんが尾道のビジネスホテルで岸田道生の絵を見たという話をきっかけに、それぞれが旅の思い出を語ったのだった。尾道、奥飛騨、津軽、天竜峡。それらはとくに何ということもない平凡な旅の思い出だった。ただし、岸田道生の銅版画「夜行」にまつわる旅だった、という奇妙な共通項をのぞくなら。
 中井さんの場合、家出した奥さんを追いかけていったわけだが、それも今となってはよくある思い出話である。武田君も、藤村さんも、田辺さんも、誰もが無事に旅から帰ってきた。
「しかし無事に帰ってこられない可能性もあったわけだ」
 ふとそんな言葉が胸中に浮かんだ。
 旅先でぽっかりと開いた穴に吸いこまれる。その可能性はつねにある。
 あの夜の長谷川さんのように――。

 この部分だけ読めば、あっさり読み飛ばせてしまいそうにも思えるが、しかし、第一夜から第四話までを読んでいれば、決して読み飛ばすことができない。なぜか。確かに思い出話として語られている第一話から第四話は、しかし決して「平凡な旅の思い出」と言えるようなものではないからだ。小説の大部分を為しているそれぞれの話に、「ホラー」という触れ込みに違わぬ不気味さがある。それを、「私」が「平凡な旅の思い出」と言ってしまうのが、最初から読んできた読者には、それまで読んできた話の不気味さ以上に、不気味なのだ。しかし、「私」は、親切にも、我々の不気味さに解答を与えている。「無事に帰ってこられない可能性」――第一夜から第四夜までに語られていた、少なくともそれぞれの夜の結末部分は、どうもその、「無事に帰ってこられない可能性」側の記述であるように読めるのだ。具体的には引用しないが、それぞれの夜の話の終わりから、彼らが「無事に帰ってこられ」るとは、思えない。読者はおそらく、「私」が聞いたという「平凡な旅の思い出」ではなく、「旅先でぽっかりと開いた穴に吸いこまれ」た方の話を読まされている(そして、“そちら”が「曙光」であり、“こちら”が「夜行」だ)。この小説世界において失踪したのは、もちろん長谷川だけではないし、長谷川と「私」だけでもないのである。

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