わたしは哲学の素人である。大学に入ってから今まで、何冊か(も?)入門書や概説書を読み、現代思想なんかをつまみ食いしてきたこともあり、むしろ一般的素人よりも好ましくない状態の哲学の素人であるかもしれない。何とかもう一度、最初から、哲学を始められないだろうか……そのようなことを考えるようになったのはここ数年のことだが、最近、例えば中島義道『哲学塾の風景』を読んで自分がいかに適当に哲学書を読んできたかを思い知ったり、竹田青嗣が苫野一徳に課したという「一年で哲学書六〇冊、一冊につき三万字のレジュメ」修行の話を『子どもの頃から哲学者』で読んで哲学の「勉強」がどういうものなのかを思い知ったりしたことで、より一層そうした思いが強くなったように思う。

 わたしの人生に、哲学というものが何か良いものをもたらすことがあるだろうか。上に挙げた二冊を読んだのは、丁度軽くない病気で入院している時だった。すぐさま死ぬような病気ではなかったが、死のことばかり考えていた。良いものはすべて失われていくと、そうしたことばかり考えていた。いくらか回復して退屈を感じるようになると、せっかくだから厚い本を読んでおこうと思いドストエフスキー『悪霊』レヴィ=ストロース『悲しき熱帯』デリダ『マルクスの亡霊たち』を読んだ。そうした本を読む間、脳の疲れを取ろうと読んだのが『哲学塾の風景』『子どもの頃から哲学者』であった。どれも読んでいればおもしろかったが、ふとしたときにすぐ先にある死の影がちらつき、本当は死というものは常に等しくあらゆる人間のすぐ先にあって、それは入院する前のわたしにとってもそうだったわけではあるが、死までの暇つぶし、といったような言葉が幾度も浮かんだ。入院する数日前に読んだ本にこんな一節があったのを、ベッドの上で思い出した。

それから長い年月を経て彼は図書館の焼け焦げた廃墟の中に立ち水溜まりに浸かっている黒い書物の数々を眺めた。書架はみなひっくり返されていた。何千列にも並んでいた嘘に対する憤怒。彼は一冊を手にとり水を吸って膨らんだ重いページをめくった。彼はどんな小さなものの価値も来るべき世界に基礎を置いていることを思ってみたことがなかった。彼は驚かされた。これらのものが占めていた空間自体が一つの期待であったことに。

コーマック・マッカーシー『ザ・ロード』黒原敏行訳

ここではまさに書物の価値が語られている。その価値は「来るべき世界に基礎を置いている」。では、来るべき世界を待たぬ者にとっては? そんなことを考えた。

 わたしの人生に、哲学というものが何か良いものをもたらすことがあるだろうか。中島も苫野も、哲学によって絶望から救われた、といったようなことを語る。しかし、わたしはそのようなことを少なくとも意識的には期待してはいない。わたしの人生に、哲学というものが何か良いものをもたらすことがあるだろうか。そのようなことはない、と自答する。ではなぜ、もう一度、最初から、哲学を始めようと思うのか? 今のところそれは、そこに、良い悪いを超えた、価値などというものを超えた何かがあるような、ふわっとそんな気がするためである。

 具体的には、まず古典的なテキストをリストアップする。そして、基本的には年代順に読む。「レジュメ」を作ったり感想を述べてみたりする。意志の弱い人間であるし、それほど期待があるわけでもないから、この試み――「私的に哲学を読む試み」は、この序文で終わりかもしれない。特に期限を設けるつもりはないし、そうして時間をかけていると心変わりするのが意志の弱い人間の常だ。

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