範宙遊泳『その夜と友達』はいくらかは人間的だった学生時代を経てクソみたいな大人になりつつある日本の私たちにとにかく刺さる。差別発言とかしちゃう人が大統領になって大丈夫なのかなどと言っていた過去(2017年頃)と、6色の造花を配っていたら逮捕される未来。過去は化石のようだが、未来は近い。

舞台上の田町和範(武谷公雄)が言うには、どうも私たちは「未来の友人」らしい。彼は「こちら側」であり客席の私たちにも、「向こう側」の壁に映し出される映像の中の友人・三枝夜(大橋一輝)にも語りかける(範宙遊泳の映像の使い方は相変わらずエグく、よくわからないが感覚的には「不気味の谷」に近いものがあるような気がする)。未来である現在と過去を行き来する彼は第四の壁の此方と彼方を行き来するかのようでもあるが、やはりそこにはカーテンが掛けられる。

彼らは繰り返し辻褄の合わなさを強調するが、辻褄の合っていないのは場を共有していながら第四の壁によって遠く隔てられた彼らと私たち(映像の中の夜のように、私たちが彼らに語りかけることはないし、厳密には彼らは私たちに語りかけてなどいないだろう)でもあるだろう。しかし、辻褄が合っていないにも関わらず、私たちは彼らの物語に胸を痛め、6色の花を配って逮捕されるという架空の未来の事件にリアリティを感じることができる。

辻褄が合わないことは可能性であるようだ。田町は、可能性という言葉をポジティブに使いたい、といったことを言っていた。可能性と同じように、辻褄が合わないということも、ネガティブでもあり得るしポジティブでもあり得る。最後のシーン、夜の部屋で、夜と田町とそこにいるはずのない(結婚して子供がいる)滝沢あん(名児耶ゆり)と「辻褄が合っていない」のに場を共有し、言葉を交わし、酒を飲み交わすことができた、その辻褄の合わなさは間違いなくポジティブなものである。

そして、可能性、辻褄の合わなさは、おそらく暴力にも近い(それらすべてに、ポジティブな形態(LOVE)とネガティブな形態(HATE)があり得る)。適当なことを言えば、範宙遊泳の演劇はポジティブな暴力だろう。

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