素直にサスペンス・ホラー・エンターテイメントとして楽しめば良いのかもしれない。しかし、あえて、つまらない考察を試みたい。ナ・ホンジン監督の映画『哭声/コクソン』についてである。
 「コクソン」は、叫び声を表す「哭声」と「谷城」という地名の読み方を掛けたタイトルなのだろう。舞台は谷城という田舎の村であり、主人公は警察官で、惨殺事件を調査しているうちに自分も巻き込まれていく、といったストーリーである。結果的に、悪霊の取り憑いた人物(『エクソシスト』的な描写といった感じ)が事件を起こしていると主人公たちは判断し、韓国土着(風)の祈祷師と共に、その悪霊を退治しようとするが……結末は後に語ることになるだろう。

1 役立たずの神父

 この映画で悪霊と目される存在は、國村隼が演じており、役としても日本人で、「日本人」と呼ばれるのだが、キリスト教的な、キリスト教的世界観において想像される悪霊のようである。裸(褌一枚)で生肉を直に食らう姿は獣的だし、妖しげな儀式を行ったり、カラスを用いたり、取り憑かれたものはヒステリー状態となって、身体を異常に仰け反らせたりする。さらにはゾンビ化する人物も現れる。映画の冒頭にルカの福音書からの引用もあったが、『哭声/コクソン』は、ある程度の部分、キリスト教的世界観にのっとった映画なのである。知られているように、韓国においては、近世・近代に入り込んだキリスト教が一定の勢力を持っており、この世界観自体に違和感はない。
 映画『エクソシスト』でキリスト教的悪霊祓いを行ったのは二人の神父であった。この映画でも同じことが期待されるが、まず俗人たる主人公たちが頼るのは祈祷師の男である(韓国の宗教や儀式には詳しくないが、彼の悪霊祓いは何か伝統的な形式なのだろうか、エキゾチックな創作なのだろうか。まあ、後者という気がするが……)。そしてその後で神父に相談することになるのだが、あろうことか、神父は、そうした非科学的なものを否定し、病院を勧める。もちろん、悪霊に医学は効きようがない。最も活躍すべき神父は、この映画では、期待に反してまったくの役立たずなのだ。

2 「ナワバリ」に入り込む「日本人」

 入り込んだキリスト教、と先に書いたが、「日本人」もまた、外部から、谷城に入り込んだ存在に違いない。國村隼演じる「日本人」は、山奥の孤立した一軒家に住み、パスポートも持っているのだが、そこで妖しげな儀式を行い、基本的には、主人公たちによって悪霊と目される(彼は観る者にもかなり不気味に映る。おそらくは韓国人/語と日本人/語の近さと通さが違和感となり、不気味となるのだと思うのだが、韓国人が観れば、より不気味なのではないだろうか?)。祈祷師は彼は「死者」なのだと言いもする。主人公たちの会話によれば、彼が現れてから、村では奇妙な事件が続いているらしい。彼こそ悪霊であると考えた主人公たちは、彼を「ナワバリ」から追い出そうと、彼の飼い犬を殺したり、集団で武器を持って襲撃に行く。
 さて、おもしろいのは、「ナワバリ」という言葉である。どうも、韓国語においても、ほぼ「ナワバリ」という音で、日本語の「縄張り」と同じ意味を表しているようだ。「ナワバリ」に入り込んだ「日本人」、「日本人」を「ナワバリ」から追い出すという状況にあって、そもそもその「ナワバリ」という言葉が日本語由来なのである。異物たる日本――日本人/語は、肉と骨を持った「日本人」一人だけでなく、その土台にまで食い込んでいるのだ(洋服、その他諸々、言うまでもあるまい)――どこか暗示的である。

3 祈祷師と謎の女

 入り込んだもの――キリスト教と日本に対する者として、男の祈祷師と、謎の女がいる。祈祷師はどこかエキゾチックな土着性を感じさせる存在である。祈祷師の行う悪霊祓いの儀式も、いかにもアジア的といった感じのするものである。謎の女は、彼女もまた韓国人のようだが、どこか透明な存在である。つまり、奇行をのぞけば、見た目としてはごく普通だ。まじないを行う力があるようだが、その力の行使の仕方もほとんど描かれない。
 おもしろいのは、この二名もまた、対立しているように見えるところだ。謎の女は祈祷師に嘔吐・吐血させる。祈祷師は主人公に「女を信じるな」と言う。同じ朝鮮半島人で、外から入り込んだわけでもなさそうな二人の対立――どこか暗示的である。

4 日本人/悪霊/聖痕

 映画は最終的にはほぼバッドエンドで終わる。キリスト教的悪霊に対して土着的な祈祷・まじないで挑んだ、そのミスマッチ故ではないかという気もするのだが、その最終盤に、主人公の仲間の一人(キリスト教会の助祭)が洞窟へ、悪霊と目されていた「日本人」に会いに行く。そこで男はいかにも悪霊じみた、目が赤く、皮膚が黒く、牙があり、骨張っていて……といった姿に変身するのだが、カメラはその手の聖痕を捉える。聖痕とはもちろんイエス・キリストの磔刑の際についた傷であり、また信者の手に奇跡として現れることがあるという傷だが、その傷は、もちろんキリスト教の立場から言えば善きものだ。そうでない立場から見れば罪人・死刑囚の証とも言えそうだが、ともかく手にそのような傷の現れている彼は、単純な悪霊であるはずがない。後に書くように、この「日本人」は実は物語における善の存在である可能性もある。しかし、正しく悪霊である可能性もある――ここにきても、「日本人」は善悪を判断することの不可能な存在なのだ。
 これまで、暗示的、暗示的と書いてきたが、もちろんこれは、朝鮮半島史の暗示として読み取ることができる、という意味で書いている。朝鮮半島に外部から入り込んだもの、朝鮮半島の朝鮮人同士の対立、こうしたモチーフは、現実の朝鮮半島の歴史と今ある社会的状況を連想させる。もちろん、監督なり脚本家なりがそれを狙っている、と言うつもりはない。無意図であるとすれば、韓国で映画を撮るときに、意図せずともそうした外部が映り込むということであるが、どちらでもいい。
 では、「日本人」=聖痕を持つキリスト教的悪霊の、善悪を判断することの不可能性、あるいは善悪の両義性は、どのような歴史を、社会的状況を、暗示していることになるだろうか。

5 解答はない

 しかも、「日本人」=悪霊が悪者だった、ということで、すべてのシーンを納得できるわけではない。例えば、ゾンビ化した人物が主人公たちを襲う前、「日本人」はその人物に対して何か儀式を仕掛けていた描写があり、その人物はその儀式から脱出したように見える。そして彼が主人公たちを襲う際には、「日本人」は物陰からその様子を真剣な表情で見ており、ゾンビは突如苦しみだして死ぬのだが、主人公たちの物理的攻撃にはまったくダメージを受けた様子のない彼を殺したのは、物陰から覗いていた「日本人」である可能性があり、そうだとすれば、それは、主人公たちを助ける行動だ。結局、祈祷師の言うように、呪いをかけていたのは謎の女であり、日本人は善だった……そういう可能性もある。
 そして、他の可能性も、いくらでも考えられる。「日本人」も謎の女も主人公の娘(すばらしい演技力である)の持ち物を持っていた。被害者の写真は、決して確実な証拠ではあるまい。「惑わされるな」と謎の女は言うが、その言葉さえ誘惑の言葉なのであり、主人公も、観る者も、惑うほかないのである。

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