橋本愛演じるヒロイン「純」の元へ、永野芽郁演じる準ヒロイン「ハル」がやってきて、かつて純の住んでいた部屋に住んでいたという写真の女性のことを教えてほしいと言う。成り行きでハルは純の部屋に泊まり込むことになり、その女性の孫である「トキオ」(染谷将太)と出会い、やがて女性の遺したオープンリールを手に入れる。その50年前のオープンリールには、井の頭公園で演奏された歌が録音されていたが、データが破損しており、その曲を完成させようと純とトキオが奮闘する――物語のあらすじとしてはこのような映画だ。

 製作背景は知らずに観た。ホームページを見れば色々と書いてあるのだが、そのホームページのタイトルを見ると「井の頭公園の映画『PARKS パークス』」とある。またそのホームページには「さまざまな人々が忘れがたい時間を共有し、やがて去っていく公園のような映画」という表現がある。制作側によれば『PARKS』は、橋本愛と永野芽郁(天使)がひたすらかわいいだけの映画ではなく、井の頭公園の/のような映画らしい。なるほど、そう言われると確かに、と思わせるところがこの映画にはあった。

1 井の頭公園の映画

 まず、この映画は「井の頭公園の映画」である。映画について、自分に語る資格があるのかは疑問だが、やはりその始まりは、おそらくは現実の記録と再生を目的としていたのではなかろうか。そして井の頭公園の開園100周年を記念する映画でもある『PARKS』は、井の頭公園を記録し、再生するものであるという意味で、まさしく「井の頭公園の映画」なのだ。主人公格の三人は、井の頭公園、吉祥寺の街の各所各所を走り回り、踊ってまわる。三人は三人でオシャレでかわいいのだが、そのオシャレさも中央線沿い・吉祥寺のイメージにマッチしている。引きで撮られるシーンも多く、通常は背景である空間を妙に意識させられるその映像は、どこか名所案内・PRめいて見えさえするのだが、「井の頭公園の映画」としては、これが真っ当な撮られ方なのだ。もちろん、それぞれの俳優にフォーカスがあたるシーンも少なくない。しかし同様に、井の頭公園・吉祥寺の街もまた、三人と並ぶ主役なのである。

 また、井の頭公園は、ビデオカメラで撮影されたことで、映画『PARKS』として記録され、再生されるわけだが、映画の物語においても、記録される。ラッパーであるトキオのアイデアで、公園の音がサンプリングされるのだ(ラップ文化に詳しくなく、厳密にはサンプリングではないのかもしれないが、音楽に用いようと公園の自然音を録音していた[追記:ハスキーさんいわく「フィールドレコーディングの方が一般的かな」とのこと。どちらにせよよくわかりません!])。本作では、例えば冒頭に、自転車で井の頭公園を走る橋本愛を映しつつ、彼女の声で、物語を春から始めたい、桜のシーン終わらせたいといった物語の外側の台詞があったり、サンプリングのシーンでカメラにマイクを当てたり、映画の物語においてハルの書いている小説と映画の物語が入り混じったりと、撮影/映画内物語/映画内物語内小説の枠を越境するような演出があったが、三人の行ったサンプリングもまた、この映画の公園の記録という側面をメタに表現していた。そういえば、映画には50年前に公園で録音され、データが破損し完全には聴くことができないオープンリールも出てきた。この映画が記録の側面を持つものであると同時に、記録は映画の物語において主題化されてもいた。

2 井の頭公園のような映画

 そして、「井の頭公園のような映画」である。ではこの映画のどこが公園のようであったのか? 「さまざまな人々が忘れがたい時間を共有し、やがて去っていく公園のような」とあるように、この映画自体が、吉祥寺や井の頭公園を愛していたり、バウスシアターを愛していたりした人々の縁になるという解釈もできるだろうが、逆に、映画における井の頭公園のあり方が、映画じみているのだと、そういう見方もできる。映画の物語において、50年前の恋愛が描かれる。それはハルの夢?(想像? 小説?)の中の出来事として演じられ映されるのだが、その恋愛の中心となる男女は、物語の開始時点で既に死んでいる。さらには、もう一人の登場人物も、物語の終盤で死ぬ。その死を含むシークエンスはこの映画の最もネガティブな時間であり、またそのネガティブさに反して復調は早く、幸福感あふれるこの映画になぜこのネガティブさが必要だったのか、なぜ容易に復調されたのか、いまいち考えをまとめられていないのだが、それはともかく、映画においては、こうして死んでいくもの、喪われていくもの、それを再生させる縁として、井の頭公園が機能している。100年間存在する井の頭公園には、100年分が焼き付けられているのだ。そしてそれは、ハルのように、そこを訪れ、それを臨む者によって、再生される(夢、想像、小説、何であってもいい)のである。

 さらには、その再生は、記録的な、単なる過去の復元ではない。50年前の当人たちは死んでいる。ハルによって再生された50年前は、完璧な過去の復元であるはずがないし、完璧どころか、まったく違っている可能性さえあるのだ。不完全なオープンリールの音源を完成させようという純やトキオの奮闘にも同じことが言える。初め、彼らの「完成」させた曲は、ハルによって否定される。「ポップでダンサブル」を目指してエレキギターやラップやベースやドラムを加えたそれが、50年前、恋人に向けてアコースティックギター一本で弾き語られた曲の完成であるとは、確かに考えがたい。しかし、ネガティブなシークエンスを越えて、最後の最後に歌われるその歌と映像には、幸福感が蘇っている。そして、振り向いたハルは微笑む。最後に歌われるその歌は、単純に考えれば、50年前の歌の完成ではない。しかし、ハルによって再生された50年前の恋愛の物語と同程度には、再生である。そして、思えば再生という言葉は元来、生まれ「かわる」ことを意味している。物語において、公園は確かに再生させた。映画のように――井の頭公園の映画、公園の記録などと先に書いたが、映画もまた、撮影時の完全な井の頭公園を復元したりはしない。それは再生されるだけだ。

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