‪こまばアゴラでやっていた高校演劇サミットという企画で、都立駒場高校、甲府南高校、精華高校の演劇を観た。それぞれについて思ったことのメモを記しておくが、我ながら、彼らを高校生として見てしまっている、上からのコメントになっている。まあ彼らは高校生なので高校生として見てしまうのは仕方ないと、我ながら思いもするのだが、上から見てしまうのは失礼だという気持ちが起こるくらいには、彼らの演劇はどれも大変に素晴らしかった。よく聞く言い訳だが、大前提として、どれもものすごくレベルが高く、おもしろかった。また三校を連続で観たのでどうしても比較して語ってしまうのも、それぞれ単体でじっくり観てもおもしろく、語れるものであったはずなので、もったいない気がしなくもない。

高校演劇なるものははじめて観たのだが、ふつうに演劇を楽しむのと同様にも楽しめるし、高校演劇という文脈からも楽しめるし(今回その文脈を最も活かしていたのは甲府南の脚本である)、高校生の演劇としても楽しめる(卒業、部活、人間関係、家庭――三校とも、そうした高校生のリアルのようなものを感じさせる演劇となっていた。)。今さら、大変に豊潤な世界を知ってしまった……。

都立駒場高校『かわいそうのうそ』

一時間の枠に幅広い感情の上下(「江戸ザイル」のアイドル的多幸感のあるパフォーマンスから、DVの話まで)があり、観る者の感情を揺さぶる。例えば「わたし、みんなといる今が一番楽しいんだ!」「好きな人といっしょになる」「私の夢を、私が叶える」「お父さんの命の分、俺は生きる」というような物語のクライマックスの台詞が、彼ら演劇部員のリアルな感情と想像されるものと重なる。そして、みんなといっしょに生きるために母と見なされていた観音像を破壊するという物語の結末が、彼ら高校生の心理的離乳と想像されるものと重なる。その巧みな脚本に何より感動したのだが、‬大勢の役者を(おそらく)全員使うという姿勢もすばらしく、そして全員が統制のとれたうねりとなって上演を動かしていく演出の巧みさ、それについていく役者が、またとんでもなくレベルが高い(難しい集団芸をいくつもこなし、大道芸的おもしろさがある)。

作・花井紗代子と演出・隅山侑衣子は主演、副主演でもあり、好演を見せていた。この脚本、演出が高校演劇の平均的なものだとは信じたくなく(しかし大会では本作は勝ち進んでいないようである……)、相当な技術を持った特別な二人だったのではないかなぁと思いたいのだが、しかし、その個人技だけでは、このような芝居はできない。変な話だが、高度な集団芸を成立させる部活動としての質の高さを感じる芝居であった(アップの様子、カーテンコール後の音響照明の紹介からも)。

県立甲府南高校『歩き続けてときどき止まる』

顧問の中村勉先生の脚本ということだが、メタ高校演劇的ネタ、演劇部ネタがおもしろく、また「コミュ障」という十代後半の若者にはす身近すぎるテーマに、高校生以上の高校生目線を感じた。大きな演出があるわけではないが、それぞれの役者が要所要所で細かいニュアンスを正確に再現し、物語らしい物語のない脚本なのだが、おもしろく観ていられる。そして、詩人の力を借り、挿入されていた個人史的なばらばらの断片を合唱に落とし込む脚本に技術を感じるし(それは、技術で無理やり落とし込んだ、とも言える。おもしろく観てはいられたが、まとまりを欠いていたという印象は残った。)、また等身大で歌う高校生たちに、感動しないはずがない。精華のように派手に活躍している役者はいなかったが、それは高校生であることを利用できているということでもある。

精華高校『大阪、ミナミの高校生』

大阪のイメージを極めて意識的に用いた脚本であり、役者たちであった。とにかく役者(特に三年生たち)のレベルが高く、即興的小芝居、観客の掴み方はプロの腕前である。

脚本は生徒とプロの合作のようだが、『歩き続けて〜』と同様に個人史的な断片が挿入され、それらが通奏低音のごとく芝居の雰囲気を作り上げていくのだが、『歩き続けて〜』以上に、単なる断片としてで終わってしまっているように私は感じた。また、物語においても(物語部分と個人史と思われる部分の境目はかなり曖昧なのだが。そしてその曖昧さをきちんと曖昧に演じる役者の上手さよ!)、物語は最終的にはある登場人物たちの結婚で幕を閉じるのだが、例えば塚本このみという女優(高校生にこういうことはあまり言いたくないのだが、大変美人である。それだけでなく役者としてのレベルも相当なのだが)が演じるキャラクターに増えていくケガ、他には、転入生の細かな設定など、細かく設定されているにも関わらず、物語にはほとんど関わらず、雑音のようにしか感じられなかった。もしかしたらそれら断片や設定は、作り手にとっては切実なものなのかもしれないが(もしかしたら下敷きとなっている作品由来なのかもしれないが)、切実なものをそのままのせれば伝わるわけでもないのだなぁ、などと考えさせられた。

作り手側の切実さ、は三作すべてから感じたものでもある。というよりは、三作すべて、演劇の虚構から、作り手、あるいは役者の切実なリアルへと突き抜けていくような脚本を持っていた。偶然なのか、高校演劇の特色なのかはわからないが、個人的には、そうして高校生の切実なリアル(と想像されるもの)へと突き抜けていく構造を持った演劇の方が、高校演劇として見れば、高く評価してしまうような気がする。彼らは卒業していく。高校の名の元に演じられる切実さは、その高校の演劇部に確かに存在した人間のものでありながら、その人間たちはその高校から離れていく。その刹那性が、また感動的である。

(駒場と精華で家庭内暴力というモチーフが共通しているのもおもしろい)

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