山戸結希監督『溺れるナイフ』は、小松菜奈、菅田将暉、重岡大毅、上白石萌音といった今をときめく俳優陣と、いかにも流行の量産される少女漫画原作の映画然とした予告映像と宣伝で、正直不安もあったのだが、山戸結希はその個性の鋭さをまったく失っておらず、むしろ磨きをかけていた。

鮮烈な色彩感覚とシーン構成、画面構成。どこか受動的に、外部の、あるいは内部の制御できぬ力に引っ張られるように動き、走る(それは踊っているようにも見える)少女や、それを映すカメラの揺れが演出する不安定さ。観る者に緊張感を与え、あるいは陶酔させるそれらは、山戸結希がそれこそ最初から持っていた武器である。本作はそこに、少女を乱暴に引っ張り、少女を追いかけ、少女から逃げ回る少年が加わることで、極めてエロティックな映像になっている。少女と少年が互いに引かれ合い反発し合い、あるいは共に落ちていく映像は、観る者にセックスを思わせる。そして物語上二人がセックスをする場面で、それが直接映し出されることはないが、その場面でそこに至るまでの映像が反復されることで、彼らが繰り返していたことが象徴的にセックスであったことを、改めて認識させられる。

抑えたように見えるところもある。山戸結希は冒頭に記述したような特異な映像の他に、その特異な台詞回しもよく知られていた。様々な形容のされ方があるが、私に言わせれば、形式としては書き言葉のような、内容としては、素人の哲学のような、あるいはJ-POPの歌詞のような、「少女漫画のモノローグ」のような、長く、俳優が対話の場面で発する台詞としては不自然であり、それ故に異化効果のある、そのような台詞である。そうした台詞はこれまでの山戸結希の映画においては、少女たちによってとうとうと語られ、その台詞として不自然な台詞は俳優の演技を崩しかけもし、それもまた映画に不安定さ(無論、絶妙なバランス感覚のもと)を与える。そのような長い台詞は、『溺れるナイフ』においては「少女漫画のモノローグ」として普通に見られる程度にしか見られなかった。

だからといって、台詞回しが「自然」だとは思えない。映画において、原作漫画の台詞をそのまま使っていると思われるところがある。漫画の台詞は無論、書かれた言葉であり、漫画に書かれた対話を声に出してみても、自然な対話にはならない場合が多い。おそらくはそうした台詞、対話を、あえてそのまま俳優に言わせ、そうした台詞を「自然」に言うことの困難さが、俳優の演技を不安定にし、観客には聴覚的な異化効果をもたらす。そうした台詞の使い方は、やはり、これまでの山戸結希の台詞の使い方と同様である。しかし、長く、あからさまで、頻繁で、異化的な台詞でありながら例えば『5つき数えれば君の夢』では鈍り飽きさせもしたこれまでの作品における台詞と比べれば、『溺れるナイフ』においてはそれはより密かに的確に差し込まれ、故に鋭いままである。

そしてまた、原作に沿っているのであろうその物語の主題も、極めて山戸結希的であるように思う。小松菜奈や菅田将暉らが演じるのは、「武器」を持っている若者だ。それは、美しさであり、自由であり、可能性だ。傲慢に、自らの無限の可能性を信じる少女と、その成長と共に失われるもの――それは山戸結希の繰り返し描いてきた主題であるが、本作においても監督はそうした主題を描きつつ、新たに、少年を加えてもいる。

小松菜奈演じる夏芽はその美貌で一流写真家の目にとまる。そしてその美しさゆえに、村の名家の息子であり、自由奔放で恐い物知らずの菅田将暉演じるヒーロー・コウの愛を得る。彼女は「きれいだ」と言われれば首を振るが、その実、自分の美しさを自認して芸能活動をし、また、コウと重岡大毅演じる大友との間で、どちらかを選ぶという立場にいることも自認している(だからこそ、大友に「好きにならないよ」などと言える)。また、コウも、家の名のもと、自分が何をしても許されるということを自認している。夏芽に愛される資格があることを自認している。そして、映画に登場する若者たちは、いや、若者というものは、可能性に満ちあふれている。

それはもちろん、「傲慢さ」と呼ばれかねないものである。だが、美しく、自由で、可能性に満ちあふれた若者とは、傲慢さとは切り離せぬ存在であろう。それは、映画の冒頭のモノローグで、高らかに宣言されてもいる。

そのころ 私はまだ15歳で
全てを知ることができる
全てを手に入れることができる
全てを彼に差し出し
共に笑い飛ばす権利が
自分にのみあるのだと思い込んでいた

そして、美しさ、自由、可能性ゆえに傲慢な若者、若者の傲慢さを持つ彼/女らが、成長しなければならないとき、まっさきに失わなければならないものがある。それは、可能性だ。若者の美しさも自由も、やがては失われるものに違いない(若くて綺麗なうちに撮ってもらえ、と夏芽の母は言う)。しかし、映画においてまず失われるのは可能性である。夏芽は、東京で女優として生きるために、コウや大友と田舎で生きていく可能性を捨てる必要があったのである。

映像の手法も、物語の主題も、監督のこれまでの仕事から引き継がれているものだ。しかし『溺れるナイフ』は、これまで以上の完成度で作り上げられている。『溺れるナイフ』は、これまでの山戸結希の映画を超えた、山戸結希の映画である。

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