ハスキーさんに書けと言われた(?笑)ので書いたものです。ハスキーさんのブログ「カフェインとレコーズ」にも掲載されています。ハスキーさんの書かれた同作への劇評はこちら

2016年9月18日、さいたま芸術劇場で観劇。思ったことを三点。しかし、観劇してから既に二週間くらい経っているので、かなり記憶が怪しくなっているということと、『クラゲノココロ』も『ヒダリメノヒダ』も初演を観ておらず(『クラゲノココロ』はマームとジプシー初期の作品であり、よほどおっかけていない限り、観ていないとは思うのですが)『モモノパノラマ』は観たらしいのだが記憶がまったくなく、といったことは、言い訳として先に記しておきます。人は忘れる。

一 わたしたちが思っているよりもずっとはやいんだよ、何もかも。

 どんな作品だっただろうか。舞台は三分割されていた。『クラゲノココロ』と『モモノパノラマ』と『ヒダリメノヒダ』それぞれの物語が、同時に始められ、なんとなく重ね合わされながら演じられていた。『クラゲノココロ』に関してはどのような物語なのかよくわからず、ただ要素が入り込んでいるのだろうと思った。『モモノパノラマ』は姉妹(アユミとサトコ)の飼っていたモモという猫の死までの物語。『ヒダリメノヒダ』は癲癇を持つ少年(オノシマ)の自殺までの物語。おおまかに、そして一部の細部は覚えていて思い出せるが、全体をつぶさに語ることはできない。人は忘れる。
 人は忘れる。川上未映子によれば藤田貴大は(自身も)「人生が1回しかなくて、すべてが過ぎ去っていくことが許せ」ず、彼もそれを肯定する(考えてみればかなりナイーブな物言いで、川上のような大人が言っているとなんとなく気持ち悪く感じられるのだが、藤田が同じようなことを言っていても別に気持ち悪い感じがしないから不思議である。なぜか、彼は特権的に気持ち悪さを免除されている。単純に若くてしかも顔が良いから、というだけでもあるまい……)。

「納得がいかない」という思いは常にあります。特に、時間や記憶というものに対しては本当に納得がいってなくて、その納得のいかなさが僕の劇で「反復」の演出をさせているんだと思うんですよね。
藤田貴大×川上未映子の叫び「まだ全然言い足りてない」

 時間の一回性は、記憶が万能なのであれば問題にはならないのだろうが、実際には記憶はあっという間に薄れていく。忘れるべきではないと思われることが、覚えていられないほどに起きて、納得いこうがいくまいが、時間が過ぎるとともに記憶は薄れていく――作中に「わたしたちが思っているよりもずっとはやいんだよ、何もかも」という台詞があった。物語の流れとしては確か、人が人を好きになったり嫌いになったりすることがはやい、という会話のあとの台詞なのだが、私にはこの台詞は、そうした文脈を離れて個人的に刺さったし、また藤田貴大の創作の根源にある思いのようなものにも届いている台詞であったようにも思った。この台詞は、藤田貴大が納得いかないという時間や記憶を受け入れたような台詞で、舞台上ではあっけらからんとしている(男の子と別れて別の男の子を好きになる女の子があっけらからんと言うのだ)ように見えながら、哀しみを感じさせもしたのだ。納得いこうがいくまいが、反復しようがしまいが、やはり時間は過ぎ、記憶は薄れるのであって、本作の登場人物たちのように私たちは、それを受け入れるしかないだろう。

二 幽霊

 本作には「幽霊」が出てきていた――と、言っても『ハムレット』や能のように幽霊を演じるものがいて生きている者に何かを語るというわけではなく、台詞において「幽霊」がいるような感じがすると語る者がいて、物語上死んだ人物が舞台上にいてそれを「幽霊」と解釈することもできるということなのだが、「幽霊」という台詞に私は少し衝撃を受けたし、疑問も感じた。幽霊という言葉は今、人文学の領域(?)でちょっとしたキーワードになっているはずで、そういう言葉を、あっさりと使ってきたことへの衝撃と、これまで藤田貴大の演出のキーワードとなってきた「反復」との関係についての疑問である。
 前者、幽霊という言葉を用いたこと自体への少しの衝撃については、正直に言えばまさに今勉強中のところであり、現段階では詳しく語ることができない(ずっとできないかもしれないが)。後者について少し説明すれば、本作に登場した「幽霊」は、どうも「反復」と干渉しているように感じられたのである。
 藤原ちからの「所感」によれば、「幽霊」は『ヒダリメノヒダ』の初演から出てきていたようである。長くなるが引用する。

彼が納屋で自殺したのは残念だった。というか、それがこの『ヒダリメノヒダ』を急速に予定調和の中に萎ませてしまったように感じた。死んだ瞬間に彼は弔われ悼まれる存在、つまり安全な過去になってしまった。彼が幽霊として最後に現れてももはや手遅れで、生き残った人間の甘美な思い出の中に閉じ込められている。幽霊の中には生きてる者を呪い殺すものもいると聞くが、『ヒダリメノヒダ』におけるオノシマ君はそうではなく、生者に干渉する力を持ってはいなかった。そうして結局『ヒダリメノヒダ』は未来を描くことに失敗したとわたしは強く思う。ここで描かれているのは安全な過去でしかない。慄くほど執拗な過去の怨念、作家・藤田貴大の強い初期衝動であるはずの暗いそれに触れながらも、喪失感とノスタルジーというこれまでと同じ安全な口実が与えられたことで、抜けるかもしれなかった未来への出口は閉ざされてしまった。最後に「女子」はその彼の思い出をパッケージして旅立っていくのだが、彼女がいかに嘆き悲しむ素振りを見せたとしても、もはやそれは彼の死に対しての祈りではなく、彼女自身の喪失感への慰撫でしかなくなってしまう。むしろ地方都市の陰惨な閉塞感はここから始まるはずだ。彼女はそこから逃げる選択をしたわけで、そんな彼女を責めることは誰にもできないが、『ヒダリメノヒダ』は結局その逃避と自己慰撫しか描けていないように思える。
コラボレーションと失敗について マームとジプシー『ヒダリメノヒダ』から

『ヒダリメノヒダ』初演と本作で物語の大きな変更がなければ、藤原ちからのここで触れている女子はサトコだろう。彼女は「わたしたちが思っているよりもずっとはやいんだよ、何もかも」という台詞を発した者でもあるが、オノシマの死に際しても彼女は、それを受け入れるわけである。藤原の批判は正しい批判ではあるだろうが、藤田がここで描いているのはまさにそのような、納得いこうがいくまいが受け入れていく生き方でもあるように思う(本作で、オノシマの葬式のときにユリコは、白い服を着て、スケボーに乗って、あえて悼まない)。そしておそらくそのような生き方は、「反復」を繰り返す藤田の対極にある生き方である。
 本題からずれたが、この「幽霊」は、「反復」と干渉しているように思える。というのは、『ヒダリメノヒダ』以前から、藤田の演劇においては、「過去」が「反復」――いわゆるリフレインの手法――によって、「幽霊」などと呼ばれる必要もなく、現前していたからである。そういう意味で、彼の「反復」は、幽霊じみていた。そのような手法を用いてきた作家の作品に(私の見てきた限り)新たに登場した「幽霊」は、その意味合いにおいて重複しているように見える「反復」と、どのような関係を結ぶのだろうか。どうも『ヒダリメノヒダ』に出てきたような「幽霊」では、「反復」に完全に代わるものにはならない、むしろ、「反復」の持っていた可能性を削ってしまうように思えた。

 しかし、幽霊はまた、「反復」にはない可能性を持っている、とも言える。それは「未来」である。それは、藤原の批判しているように、藤田の描けていないように見えるものである。藤原は「失敗」と書いているが、『ヒダリメノヒダ』において藤田は、「未来」を描こうとして「幽霊」を用い、結果としてまさしく、「失敗」したのではないだろうか? 私には、「失敗」とまでは言わなくとも、すくなくとも、上手くいってはいない、というように思える。
 幽霊と未来とは、例えばデリダの哲学において、あるいはおそらくその影響下にある現代演劇において、既に結び付けられている。例えば岡田利規『地面と床』では幽霊が登場し語っていたが、その作中には「地面の下にいるのは その生を終えたもの」「そして、その生を未だ始めていないもの」という字幕が登場する。
 先に引用した川上との対談にもあるように、藤田が描いてきたのは過ぎ去った「過去」であった。彼の「反復」は、過ぎ去ったものの「反復」であり、その手法は「過去」を描くなかで最大限に効果を示してきた。しかし、そのような「反復」が「未来」を描けないだろうということは、理解しやすい。少し前の話ではあるが、橋本倫史『イタリア再訪日記』に載っている「カタチノチガウ」についてのインタビューに以下のような発言がある。

――それはきっと、子供を持つ怖さだけじゃなくて、未来というものに対する怖さでもありますよね。
藤田 そうそう、今はそれについて考えようとしているんだと思うんです。それは『ΛΛΛ』では踏み込めなかったし、『cocoon』をもってしても踏み込めなかったと思うんです。

『カタチノチガウ』は『ヒダリメノヒダ』初演の前に上演された作品だが、藤田自身も、これまでの作品において「未来」を描けなかったことを自覚しており、またここから、「未来」を志向し始めていたようである。『カタチノチガウ』については私はこのようなことを書いたが、あるいはここに書いたようなところから、「未来」を描こうという藤田の意志を読み取ることもできたかもしれない。

 本作に、「幽霊」という言葉と同様に、少し衝撃を受けたシーンがあった。そしてそのシーンは、今思えば、「幽霊」という言葉と、そして「未来」を描こうという意志と、関係していたように思える。
 調理実習のシーンであった。「ヒダリメノヒダ」の物語のワンシーンである。これから配膳をしようというところにやってきたオノシマは、何者かにバニラエッセンスをかけられていて、その匂いを気にして配膳をしたがらない。そして、そのまま興奮し、「殺してやる」と何度もさけび、友人に静止される。
 そして舞台の照明が消える。再び照明がつくと、配膳をしようというところにオノシマがやってくるところである。マームとジプシーを見慣れているものであれば、いつもの「反復」であると思うはずである。実際、オノシマに声をかけ、配膳を手伝うように言うところまで、まったく同じ台詞が、同じように言われる。しかし、その後、オノシマは興奮せず、穏当に応対する。展開が変わるのだ。私の見てきた限り、このようなことは、「ヒダリメノヒダ」以前のマームとジプシーにはなかったのではないか? もし仮に過去にもあったとしても、少なくとも私が見ていない/覚えていない程度には珍しいものであるはずである。
 このシークエンス、同様のシーンが繰り返され、しかし最終的な展開が変化するという、有り得たかもしれない別の有り方というような言葉で表せるシークエンスは、安易に言ってしまえば、どこかデリダじみているが、筆のこれ以上すべらないうちに、止めておきたい。ともかく、このシークエンスに私は、これまでに描いてこなかったものを描こうという作家の意志を感じた。その意志以上を読み取ることはできなかったが、今後の藤田の作品において、これがどのように展開されていくのか、楽しみである。

三 三つの物語と一つの名前

 ところで、なぜ藤田は三作を一作にして上演したのだろうか。このような形態は、本作と同じくさいたま芸術劇場での今年2月の『夜、さよなら』『夜が明けないまま、朝』『Kと真夜中のほとりで』の上演(感想記事)と同様のものである。2月の三作は、物語として連続性があり、すんなりと観ることができたが、今回は、どうも、無理に三作をくっつけている、という印象を受けた。無理な感じの要因は、おそらくは、登場人物であろう。
 藤田貴大の作品においては、役者の名前と役名が重なる。吉田聡子はサトコと呼ばれる役を演じ、成田亜佑美はアユミを、尾野島慎太朗はオノシマを演じる。『モモノパノラマ』の物語におけるサトコを演じる吉田聡子は、『ヒダリメノヒダ』の物語におけるサトコも演じており、その同じ名前を媒介にして、複数の物語が、一つの作品として同時に上演され得た、のだと思う。しかし、本作においては、例えばアユミは『ヒダリメノヒダ』の物語には関わらない(初演にも彼女は出演していない)。そうした登場人物の一致とズレが、三作を無理にくっつけた、といった印象を与えていたように感じる。なんにせよ、なぜこのような上演形態を取り始めたのか、不思議である。確かに三作とも、藤田の個人的な経験を感じさせるある世界観を共有してはいるのだが……。


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