感想というかなんというか、内容にはあまり触れませんが、少し触れます。観た人向けに書かれています(観てない人向けに書き直したり追記したりする可能性はあります)。『君の名は。』はネタバレなしで観た方がたぶんおもしろいので(僕はネタバレされてから観て、けっこうおもしろかったのですが)、ご注意ください。一度観ただけなので、見間違いの含まれている可能性がいつも以上に高いです。

『君の名は。』を観てきた。観たらつらくなる気がし、少なくとも映画館で観るのは避けようと思っていたのだが、Twitterを見ているとやたらと評判が良く、仕方なく。結果としてかなり良かった。物語も画も、これまでの新海誠の集大成という気がし、新海誠ファンとしておもしろい上に、万人受けしそうな感じもある(時代性も読み取れて語りたい人々受けも良さそうである)。

気になる(悪い意味でなく)のは二点で、一点目は、運命について。なぜこの男女がむすばれて、奇跡を起こすのか? 普通に観るとまったくその因果が描かれていないように感じる。前世の縁でもなく(1000年前から「夢を見る」一族みたいな設定があったり、思わせぶりではあるのだが、少なくとも明示はされていない。よく見れば何かあるかも……)、なぜか田舎に住む少女と東京の少年がむすばれる。Twitterで『君の名は。』について「逆算」なる言葉を用いて語っているツイートを見かけ内容はよく覚えていないのだが、「逆算」とはここらへんのことだったのだろうと今では勝手に納得している。つまり、最終的に達成される(『君の名は。』はバッドエンドを見てからでないとハッピーエンドにたどり着けないという極めてゲーム的な物語を持っている)ハッピーエンドにおいて、二人の男女は惹かれ合うという意味で運命の二人であり、だからバッドエンドを避けるべくまだ出会う前の二人がむすばれるのだ、というようなことなのだろう。言いくるめられている気分にもなるのだが、運命というものは、すごい。

二点目は携帯電話だ。新海誠はどうも携帯電話が好きでないようである。そのせいか、携帯電話をめぐって、『君の名は。』ではいくらか奇妙なところがある。

新海誠作品を振り返ってみると、たとえば初期の『ほしのこえ』では、携帯メールが重要なガジェットであった。無論スマートフォンなど影も形もなかった時代(たぶん)の作品であり、2039年を舞台にしていながらいわゆるガラケーが用いられているのだが、新海誠はその初期から、基本的には同時代かそれより未来を作品の時間として設定しており、ガラケーのあった時代にはガラケーを描きはした、とひとまずは言える。しかし、その使われ方は、普通に当時の人々が使っていたやり方とはやはり違っている。『ほしのこえ』では、男女の距離が宇宙規模で離れていくために、メールが遅延する。数日、数週間、数年もかかる言葉のやりとりは、現代的な感覚からすれば、メールではなく手紙に近いものとして理解されるように思う。

秒速5センチメートル』ではどうか? 中学生のときに離れ離れになった二人は、文通をしていたようだが、それは途切れてしまう。その後で、少なくとも男の方は携帯電話を持ってメールを打っているが、しかし、そのメールは送信されない。電話をした描写もない。重要なのはやはり、携帯電話を持っていながら、メールも電話もしないことだ。

時代は飛んで『言の葉の庭』では、登場人物たちはスマートフォンを使用しているが、そこでも事情は同じである。先生と生徒という、男女逆だったら完全にアウト(逆でなくてもアウトなのだが)な関係のためかはわからないが、二人は約束するでもなく相手のいるであろう公園に出向いていくことで、エンディングの時点では、手紙でやり取りをしている。

そして『君の名は。』である。スマートフォンの時代だ。男女ともにスマートフォンを持っている。そして本作では、新海誠作品では珍しく、この携帯電話が男女のコミュニケーションの道具になる。僕の記憶が正しければ、『ほしのこえ』以来である。しかし、携帯電話は用いるが、ネットも電話回線も使わない。予告映像を見ればわかるように、『君の名は。』では男の人格が女の方に、女の人格が男の方に、定期的に入れ替わるのだが(入れ替わった戻ったりするわけである)、その入れ替わっている間に起こった出来事を、スマートフォンの日記アプリに書いておくという形で、二人はコミュニケーションを取るのだ。それは、スマートフォンに慣れていない者にもわかりやすく言えば、電子的な交換日記である。それ以外にも、身体にペンで文字を書くことでもコミュニケーションを取ってはいるが、身体にびっしり書くわけにも行かず、スマートフォン=電子交換日記が二人の主なコミュニケーション手段となる。携帯電話だろうがスマートフォンだろうが、新海誠の手にかかれば、手紙や交換日記になってしまうのだ。

二人は互いのスマートフォンに自らの連絡先を登録したようで、男は女に電話をかけようとする。しかし、繋がらない。そこから、物語は核心に向かっていく。男は女が既に死んでいることを知り、彼女とのコミュニケーションを見返そうとスマートフォンの日記アプリを開くと、文字化けが生じ、データが消える。いざというときに、スマートフォンはまったく役に立たない。

物語においてスマートフォンはなかなか活躍しているように見える。しかし、その用途はと言えば基本的には、地図を見たり、電車の乗り換えを調べたり、日記アプリであったりで、無論それらは地図や路線図やノートがあれば事足りる。スマートフォンは、単に伝統的なガジェットの代替でしかない。そして結局奇跡を起こすのは、場所を共有し、女の作った口噛み酒を男が飲むことで成立することになる、時間を超えた、直接的な接触なのだ。そのとき、ペンで手のひらに文字を書くが、それは再び二人が分かたれた後も消えずに残っている。

ペンで書いた字は残る。しかし、スマートフォンのデータは消える。なぜ?

ただ一つ言えそうなのは、これまでの作品と同様に、『君の名は。』においても、新海誠はスマートフォンをうまく使えないということである。無論それは作品の良し悪しとは関係ない。歴史上、携帯電話をうまく使った傑作よりも、携帯電話をうまく使わない、そもそも携帯電話の登場しない傑作の方が、圧倒的に多い。古典からの引用を好む(?)新海が、古典に登場するはずもない携帯電話をうまく使えないのは、ある意味では当然だろう。スマートフォンのデータが消えてしまうのは、映画のどこかに単に僕が読みきれていない因果が描かれているのかもしれないが、もしかしたら、新海がスマートフォンを扱いそこねたことが背景にある、かもしれない。

(もちろん、「かたわれどき」(?)における接触は入れ替わりとは質の違う接触だから、「かたわれどき」に書かれた文字は残り、入れ替わりのときに書き込まれたスマートフォンのデータが消えることは矛盾していない、と言うことも普通にできる。というかたぶんそれが正解である。)

(「かたわれどき」って、「片割れ」から来ているのだろうけど、実際にそんな言い方をする地域があるのだろうか。ないだろう。なぜわざわざあまり効果のない妙な日本語を創造したのだろう……)

しかし、携帯電話を持っているのにうまくメールや電話を使えない登場人物というのは、現代の映画、小説に頻出する。新海誠に限らず、物語作者たちはまだ携帯電話時代に適応できていないのか、そもそも携帯電話が物語に適していないのか、気になるところである。

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