彩の国さいたま芸術劇場にて、2016年2月18日、初日に観劇。

ただ、この芝居について文章を書くだろうというつもりがなくメモもほとんどなく、この文章を書き始めたのは観劇の次の日の朝で、私の場合、一日経てば記憶は十分に曖昧になる。劇場で上演台本なんかを販売する劇団であれば、それをよすがに「正確」に引用することもできるのだが、「正確」な反復では決してない(「正確」な反復なるものに抗っているようにも感じられる)リフレインを主題に持つマームとジプシーにおいては、観劇を「正確」に思い出せないことまで、演出に含まれているように感じないこともなく、というわけで(言い訳じみているが)この曖昧な記憶のまま、思ったことなどを書く。

連作として上演された「夜、さよなら」「夜が明けないまま、朝」「Kと真夜中のほとりで」の三作は「夜三作」と公式に呼ばれる過去の作品のようなのだが、「Kと真夜中のほとりで」の他は初めて聞いた名だ。ホームページによれば「夜が明けないまま、朝」は2009年に上演されたようだが、「夜、さよなら」は記載されておらず、マームとジプシー旗揚げ以前に書かれたもののようである。

本日観た限り、三作は共に、「10年前の夜」をめぐる物語である。「夜、さよなら」「夜が明けないまま、朝」において、示唆されていたものの明示はされなかった誰かの消失、不在は、「Kと真夜中のほとりで」において、10年前の夜のKの消失、不在と名付けられる。その兄・かえで/尾野島慎太郎と、りりこ/成田亜佑美、さえ/吉田聡子ら友人たちが、聞き慣れた言葉を使えばその不在の中心・Kをめぐり、10年間積み重ねられた過去・積み重ねられる現在・未来について語る。Kの不在とそれぞれの距離(の取り方)には差異があり、例えば、兄であるかえでは友人たちに心配されるほどにそれにとらわれ、りりこは記憶に留めていながらも、「いま」=5歳になる息子との現実を生きることを志向している。あるいはKのいなくなったとき、町におらず、帰ってきて「たずね人」の張り紙を見た者もいる。しかし、Kを忘れている者はおらず、Kの消えた10年後の夜、彼らは眠れぬ夜を過ごし、10年前、Kの靴の発見された湖のほとりに、りりこ以外の皆が集まることになる(湖は、ある登場人物の言葉によれば「入口でも、出口でもない、たまるだけの」場所だ。さらには「町の中心」にあり、そこで消えることで、Kは不在の中心となったのである。)。そしてその夜の明けた朝、りりこは町を出るために、「唯一の入口、出口」である駅に向かう。

不在の中心、駅のみを入口/出口とする地方の町、そしてリフレイン、忘却、忘却に抗うことなど、どこか藤田の個人的体験を感じさせるモチーフは、三作に限らず、彼の繰り返し描いてきたものである。三作は、おそらくは最も純粋に、この「個人的」モチーフを用いた作品であるのだろうと思う。

マームとジプシーの演劇については、私は観れば毎回感動しているし、その演出の毎回の洗練にも必ず感銘を受ける。演出――例えば照明の使い方、舞台美術のミニマムさ――については語る能力を持たないのだが、やはり優れた、他の劇団にはないものを感じるし、この直感の正しさは批評家が語ってくれるだろう。リフレインについても、過去に他の上演を観て考えた以上のことは思わなかった。今回考えてみたいのは、泣くことについてである。

マームとジプシーの舞台上では、物語上そのキャラクターの泣いているはずのない場面で、演じる役者が泣いているように見える。

これは今回観劇した夜三作に限らず、例えば同様に不在の中心をめぐる「てんとてんを、むすぶせん。からなる、立体。そのなかに、つまっている、いくつもの。ことなった、世界。および、ひかりについて。」においてもそのように見える場面があった。同作について書いたかつての拙い感想文の中で私は「本当に苦しげにリフレインし、運動量によるものなのか、計算されたものなのかわからなくなる。本当に感極まって嗚咽しているよう」と書いている。夜三作においても、泣いているように見えるのは終盤、運動量が重なり、叫ぶようなシーンが重なり、息も絶え絶えとなる終盤、りりこが町を出発する場面だ。そして、その泣き方を見ていると、どうもキャラクター=りりこが泣いているのではなく、演じる役者=成田亜佑美が「本当に感極まって」泣いているように、見える。

なぜそう見えるのか? それはやはり、物語上、そのキャラクターが泣いているということに違和感があるからである。りりこの出発は、確かに物語としてはクライマックスであり、観る者にとっては泣ける場面である。しかし、かえでの前で、おそらくはもう帰ってこないことは匂わせずに、ただ駅に行く、他の町に行くとだけ語るりりこが、泣いているとは考えにくくはないだろうか。どうも、そこでりりこ/成田亜佑美が泣いているように見えるとき、それはそこで観客が泣くのと同様に、出発するりりこに見える範囲を超えた、いわば物語全体を俯瞰して、泣いているように見える。

このような見え方は、リフレインによって説明されるようにも思える。マームとジプシーにおいて多用されるリフレインは、素直に受け取れば回想の一種であるはずだ。物語内において過去のことを、キャラクターが回想する、その様を演じたものがリフレインであるはずだ。事実、リフレインされる場面については多く、過去形で語られる――誰によって?

リフレインされる場面を過去形で語っているのは、キャラクターだろうか。そう考えれば、りりこの出発において、りりこが泣くのは、それが回想だからなのだ、と言うことができるようにも思う。10年後の夜、りりこの出発は未来形で語られる。そして10年後の朝、出発の朝は、現在形で演じられる。過去と現在、そして未来の関係を主題とする物語の中で、リフレインされないりりこの出発は、現在と未来の中にあるようだ。しかし、りりこは、その朝すらも過去形で語る位置にいるのかもしれない。語るりりことりりこの出発との距離が、過去形で語らせ、彼女を泣かせてているのかもしれない。

しかし、演劇の上演である以上、必然的に、演じる者が確かに存在しており、例えば吉田聡子が「続けます」と宣言するように、マームとジプシーのような演劇、少なくとも夜三作においては、その存在が顕在化しもする。では、リフレインはキャラクターによる回想などではなく、演じる者による演じ直しか? 過去形で語るのは、物語る役者か? 演じる者である成田亜佑美と演じる対象であるりりこの出発との間に当たり前にある距離が、過去形で語らせ、彼女を泣かせているのか?

こうして、演劇の原理としてのキャラクター/役者の境目の曖昧さにつまづくことになる。舞台の上でキャラクターが泣くとき、それを演じる者が泣いているというのは、理解されやすいだろう。では、演じる者が泣いているのであって、キャラクターが泣いているのではない、と断言することができるだろうか? 見え方として、キャラクターが泣いているから役者も演技として泣いているというのと、キャラクターは泣いていないけれども役者が泣いている※というのは、同じはずだ。その区別など、できるのだろうか。キャラクターが泣いているのか役者が泣いているのかと問うことは、この問いに答えることは、可能か。そして、そう問うことは、必要なのだろうか。私はそう問うてしまったけれども、おそらくは、キャラクターと役者の重なりあった曖昧なものとして、舞台上でりりこ/成田亜佑美は泣いていた。りりこ/成田亜佑美、という書き方は間違っているかもしれない。「/」で切れるほど、両者は切れていないのかもしれない。

※仮にそうだとして、それも「演技として」であるはずだ。役者/演ずる者という言葉遣いには私自身混乱しているが、吉田聡子の発した「続けます」という言葉、演劇を続けることを宣言する言葉は、テキストに書かれている言葉だろう。「続けます」という言葉を発したのは役者・吉田聡子だが、それはさえを演ずる者の発話であり、そのさえを演ずる者を演じているのが役者・吉田聡子、ということになるはずである。無論、他の役者たちについても同様のことが言える。

他、感想を書いておけば、久々に成田亜佑美が見られて嬉しかった。好きな女優である。あとは、舞台上で衣装を替えるという、藤田貴大演出「書を捨てよ町へ出よう」からの自己引用があり、その中で髪の毛を編み込むなどしていて、もう消えたと思っていた三つ編みへの情熱の炎が心の深いところでかすかに揺れるのを感じた。

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