何か創作のヒントがないかと、古いメモを見返していたら、高校時代に構想した小説のプロットが出てきた。その小説では、少女が白血病で死ぬことになっていて、笑ってしまった。もう、白血病で若い子は殺せない。

 人は病に殺され続けてきた。もちろん今でも人は殺され、涙が流される。

 例えば結核。私が結核と聞いて真っ先に思い出すのはやはり堀辰雄『風立ちぬ』であり、それから津島佑子『火の山 山猿記』である(『火の山』はNHKの朝の連続ドラマ「純情きらり」の原案と書いた方がとおりが良いか)。『風立ちぬ』は1935年頃、『火の山』は1945年頃を舞台にしている。『風たちぬ』でも『火の山』でも、結核で死ぬのは気立ての美しい若いヒロインであり、その死は読者に多くの涙を流させた。結核患者数は戦後間もなく激減した。今や、結核で死ぬ女の子・文学青年は絶滅した。
 2000年代、白血病で女の子を殺した『世界の中心で、愛をさけぶ』の影響だろう、難病が流行った。思い出すのはドラマ『1リットルの涙』――『1リットルの涙』原作のノンフィクション自体は1986年に書かれている。流行に合わせたドラマ化だったのである――や『恋空』。『恋空』はがんだったか。

 しかし、00年代の流行を経て、病気で女の子や青年を殺すのはかなり難しくなってしまったように思う。もちろん書かれてはいるのだろうけれど、おそらく00年代ほどにもてはやされることはないはずだ。

 病気を凶器に用いるのが難しくなるなか、自殺は安定して女の子や青年たちを殺してきているように見える。
 現実に政府の発表しているデータによれば、若い人間の死因のトップは自殺である。身体的な病気は科学によって克服されてしまうが、心はまだまだ病気になることができる。
 しかし、文学において人が自殺するほどには、人は自殺しないだろう。

 村上春樹『風の歌を聴け』にこんな一節がある。

鼠の小説には優れた点が二つある。まずセックス・シーンの無いことと、それから一人も人が死なないことだ。放って置いても人は死ぬし、女と寝る。そういうものだ。

 村上春樹自身はセックス・シーンのある、人の死ぬ小説を書く作家ではあるが、しかし(だからこそ)この一節は鋭い。
 人の死なない小説を書かなければならない。今はそんな気がしている。
 これは、人はなかなか死なないということと向き合うことだと考えている。もちろん人は死ぬ。人は死ぬこととも、当然向き合わなければならない。しかし、人はなかなか死なないこと、それはそれでおそらく残酷な、悲しむべき悲劇であり、人は死ぬからといってぽんぽん殺していればいいものではない。人はなかなか死なないこと――今は私はそのことと向き合わなければいけない。つまり、私も私の人生のヒロインたち(苦笑)も、皆生きていて、おそらくは生き続ける。結核にはならないし自殺もしないだろう。今は私はそのことと向き合ってみなければならない。

 などと書いていたら小学生の頃、白血病で死んだ女の子のことを思い出した。彼女は同級生で、私のことを好いてくれていた。少し奇妙な言動をとる子で、彼女を嫌い子供の残酷さで嫌悪感を直接表明する者は多かった。そのなかで私がただ度胸がなかったために比較的穏やかに接したことなどが、私を好きになってくれた理由だろうと勝手に想像してみてはいるが、しかし彼女のことを、私は疎ましく思っていた。それでも彼女は私のことを好いてくれていた。彼女はチャンスがあれば私を抱きしめてくれたし、頬にキスまでしてくれた。
 いつの間にか彼女は学校からいなくなっていて、ある日、白血病で入院しているという話をされ、手紙を書かされたり鶴を折らされたりした。彼女は体調の良いときに何度かニット帽をかぶって学校に来ることがあったけれど、皆が気まずそうにしていた。彼女にしてみたって、相当に気まずく、気の進まない訪問だったのではないだろうか? 子供ながらに僕たちは病気の少女をいたわるクラスメートの役割をぎこちなくもこなし、彼女は彼女で病気の少女の役割をぎこちなくもこなしていた。私を好いてくれていた頃の、自由奔放な彼女が、病気の少女の役割をこなしていることが、私にはわかって――私にはそのように感じられて、胸にちくちくと刺さるものがあり、そのときの私は彼女を直視できなかった。
 ある日、同級生たちがある教室に集められ、涙を流す先生が、彼女の死を知らせた。移植手術を受けたあとに、強い拒絶反応が出て、亡くなったらしい。「天にのぼった」とかなんとか、忘れてしまったけれども妙に婉曲的な言い方をして、最初は素直に先生が何を言わんとしているのかわからなかった。それは私の嫌いな先生だった。
 私は別に悲しくなかった。よく覚えていない。ほっとする気持ちさえあった、などと想像で書いてしまうことは避けたいけれども、少なくとも、悲しくはなかった。
 悲しくなかったことが今はつらい。

 なぜふと思い出した彼女のことをつらつら書いたかと言えば、彼女の死に向き合うということが、よくわからないからだ。死と向き合おうとすると、どうも、そこに感動的な要素を入れ込んでしまう。今書いた回想の中にも、入り込んでいるはずだ。それを避けたい。それを避けることと、死なないことと向き合うことは、繋がっているような気がしている。

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