劇場版『ラブライブ!』を観てきた。基本的にあまり楽しめなかった。ひとつ考えたことがあったので感想といっしょに書いておく。

感想
まずこれは、ストーリーにそれほど意味のある映画ではない。物語を一文でまとめてみれば、卒業式のあと、三年生たμ’sちが学籍を失うまでの間、ニューヨークでライブをし、ファンたちから9人でμ’sを続けることを期待されるものの、結局解散を決意し、だがスクールアイドルを盛り上げたいという気持ちから、全国のスクールアイドルを集めて全員で歌を歌ったり、解散ライブを行ったりする、といった感じになるだろう。たいしたストーリーではない。テレビアニメ版においても、1クールを貫く大まかなストーリーはあったものの、大会を目指して頑張る、いろいろな悩みや苦労を乗り越え優勝する、というシンプルなもので、各話でのキャラクターたちの絡みやライブシーンがむしろ中心的に楽しまれるべきものであったように思う。そもそもストーリーに力の入れられた作品ではないのだ。劇場版も同様で、ストーリーはほとんどまったく予想を越えることがなく、おもしろいものではない。ではライブやキャラクターの絡みはどうであったか。好き嫌いがあるだろうが、私としてはアニメで見られたものよりも劣っていたように感じ、あまり楽しめなかったのである。これが私の大まかな感想だ。ただ、最後の一曲は良かった。

μ’sを終わらせるために
考えたこともたいしたことではないのだが、この映画の終わり方についてである。どうも私には、この映画の結末は、ひとつの後日譚の結末としてだけではなく、『ラブライブ!』という「生」のプロジェクトに関わるような結末をむかえているように見えるのである。以下に二点、結構無理のある考察を書いておく。

μ’sが神になる

Idolという単語には偶像という意味がある。偶像とは宗教において、神(崇拝の対象はいろいろな呼び方がされるものなのだが(例えば仏)、とりあえず神としておく)を象ったものであり、崇拝の対象となるもののことだ。Idol=偶像から展開させたアイドル論はこれまでにも多くあるが、今回はそれらには触れない。ただ、Idol=偶像ということを、劇場版『ラブライブ!』において考えてみる。

この映画のラストの数分間は宗教じみている。無数のスクールアイドルで秋葉原の大通りを占領し、μ’sを中心にして「SUNNY DAY SONG」を踊り歌うシーンは宗教行事じみているし、狭い一室に集め、μ’sの伝説を語り、彼女たちの最後のライブ「僕たちはひとつの光」の映像を見せる様は宗教勧誘のようだ。物語世界において伝説となったμ’sは、崇拝の対象のようである。ということだけを言うつもりではない。物語世界においてμ’sは、偶像として崇拝の対象となっていたのが、最終的には「生」で見ることの叶わぬ神として、崇拝されているようなのだ。

部室に集められた新入生、μ’sを目標に三年間をアイドル研究会に捧げるのであろう未来のスクールアイドルたちは、あたかもμ’sを象る偶像のようである。その次のスクールアイドルたちはしかし、もしかしたらμ’sではなくその妹たちの映像を新入生に見せることになるかもしれない。そもそもμ’sでさえ、はじめはA-RISEを目標にしていた。スクールアイドルとは偶像の連鎖なのだ。もしかしたら原初のスクールアイドルというものも存在したのかもしれないが(『伝説のアイドル伝説』なんてDVDボックスも出てきているし)、物語に登場するアイドルたちは、偶像を象る偶像、あるいは元偶像を象る偶像なのである。

偶像の連鎖は、『ラブライブ!』というプロジェクトを終わらせないための装置となる。既に、「あの憧れのアイドルμ’s」を目標とするグループAquoursの物語が始まりつつあるようだ(http://www.lovelive-anime.jp/sp_sunshine.html)。

μ’sが映像の中の存在になる

無数のスクールアイドルで秋葉原の大通りを占領し、μ’sを中心にして踊り歌うシーン。そこでは奇妙なことに、彼女たちの「ライブ」を「生」で観る観客は描かれず、なぜか、モニター越しに彼女たちの踊りを見ている者たちが映し出される。μ’s最後のライブ。狭い一室に集め、μ’sの伝説を語り、最後のライブの映像を見せる。言うまでもなく、ここでもμ’sは「生」ではなく映像上の存在である。

一歩引いて私たちの視点から語ればもちろん、アニメーションとして描かれているμ’sが生身の身体を持っているはずがない。私たちにとっては彼女は最初から「生」でなどなかった。しかし、物語の中では、それはもちろん「生」であったはずだ。だが、この劇場版において、物語の中でも、μ’sは「生」の存在ではなくなる。

劇場版『ラブライブ!』のキモはそこにあったように私は思う。つまり、この劇場版は、物語世界においてもμ’sを映像の中の、二次元の存在に落としてしまうことで、擬似的にμ’sと我々の距離を縮めるものだったのである。

物語世界においてμ’sが「生」で活躍していても、我々にはそれは二次元のことでしかない。そのとき、物語世界と私たちは決定的に分かたれている。物語世界においては「生」で存在している彼女たちは、私たちにとっては「生」でなどありえないのだ。

しかし、物語世界においてμ’sが映像の中の存在となったとき、物語世界と私たちは、どこか倒錯的ではあるが、近づく。私たちにとってそうであったように物語世界においても、μ’sは「生」ではなくなるのだから。

物語世界においてμ’sが「生」でなくなったことで、私たちは物語世界の中にいる者と同じように、μ’sのコンテンツを消費することができるようになったと言えるだろう。私たちにとっても、物語世界の人間にとっても、μ’sは「生」ではないということは、そういうことだ。それがどのような意味を持つのか(持ちうるのか)は、私にはわからないが……。

タグ:, , . カテゴリー:感想・批評・レビュー,映画・アニメ・ドラマ.
コメント:無し

« »