マームとジプシーによる『cocoon』の再演について、呟いたことなどを。

まず、私がマームとジプシーの芝居を見たら毎回言うことなので、もう書く必要もないのではとさえ思ってしまうのだが、すごく良かった。俳優たちも素敵だし演出も洗練されているし、感情にうったえてくる、素晴らしい芝居である。初演とは俳優に変化があり、その関係か登場人物たちのキャラも微妙に変化していて、特に青葉市子の演じていた少女は、彼女の身体性も含めて良かった。今回の再演では飴屋法水が白い服を着て出てきていて、それはあまり上手くいっていないように私は感じたのだが。そういえば今回は猫の話がなかった。ヒロインの生還後の恋愛を匂わせる感じもあり、より原作に近づいたかな? 初演の話もからめつつ、いくつか。初演については一応ここに、まとまってないのだが、まとめている。大まかのところは変わっていないので、追加で考えたことだけを。

この山崎健太氏のツイートを、再演を観る前に見ていて、この問題について考えつつ観ることになった。

舞台上で、演出どおりに正確に動いていく彼女たちは、山崎氏の言うように「マスゲームのよう」である。そして今回の再演では、例えば騎馬戦の場面が追加されていた。バレーボール、大縄跳び、騎馬戦……青葉演じる少女の好む「ケンケンパ」とは違い、どれも体育の授業や運動会で、多くの者が経験したことがあるであろう団体競技だが、作中ではこれらの競技を楽しげに行った少女たちは、次にはガマの中で協力し合いながら、負傷兵の看護にあたることになる。「天皇陛下の名のもとに、もてる能力のすべてを」と彼女たちは言う。しかし似たような言葉を、我々も運動会で口にし、耳にしている。「いっせいのーせ」という掛け声で彼女たちは力をあわせる。体育でも、看護活動においても。

体育は戦争の準備である。体育について誰がどのような考えを持っていようと、体育は戦争の準備になる。劇中、度々「偶然戦争だった」という台詞が発せられるが、これから「偶然」戦争が起こり、我々が「偶然」戦争に従事するようなことがあれば、我々が学んできたことは、皆戦争に活かせるだろう。我々だってやっている楽しいスポーツのすぐ先には戦争がある。劇中で音楽の授業がなくなってしまったように、レベルは違えど、何かを学べなくなる可能性は現代においても十分にあるだろう。『cocoon』の台詞において度々「いま」と「ここ」への疑義が呈されるが、それはこの芝居で描かれていることを「いま」の我々も同様に行っている、ということでもある。

加えて、初演のときにも書いたのだが、例えばあの黒い服を着た男性俳優たちを、私は人々を戦争に動員する力の暗喩だろうと見ている。マスゲーム的演出も、その一環と観ることもできる。マスゲーム的演出自体が戦争の準備になるということだけでなく、演出には戦争に動員する力がある、という意味でだ。

この芝居はとても感動的である。藤田貴大は元々、観客の感情を揺さぶるのが巧みな演出家である。しかし、感情を揺さぶることの巧みさは、すぐさま戦争への動員に役立てることができる。もしも藤田貴大のような巧みな作家が戦争の側にいるとき、そのとき我々は、抗えるだろうか? 山崎氏の問題提起はそうしたところにあるように思う。

論じられるほどの知識もないが、芸術が戦争に役立てられた事例は多くあるだろう。戦後に断罪された「戦争協力者」の中には一流の文化人もいた。では我々はそれに、抗えるのか?

私はこの芝居に感動した。しかし、感動を拒絶しなければならないときもあるだろう。ただあらゆる感動を享受するのではなく、選択していく必要があるだろう。それはなにか「つまらない」ことのようにも感じられるだろうが、そのような知性を持つことが、昨今ではより強く求められているように私は感じている。

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