早稲田松竹で観てきました。すげー良かった。一面の緑の中の、一面の白の中の武田梨奈の美しさよ……。これはストーリーをなぞるタイプの感想文です。

 この映画には、決して姿は現さない、けれども確かに物語に干渉する、人でも獣でもない何か――祖谷の男が「魔」と呼ぶ何かが存在している。『祖谷物語』という題はこれが祖谷という土地の物語であることを意味するとともに、『遠野物語』の名とも結びついている。激しく破壊された車、親らしき者の死体から離れた雪原にぽつんと、泣くこともなく這いつくばる赤ん坊は、魔の起こした一つ目の奇跡であろう。
 祖谷は平家落武者伝説の残る土地である。そんな土地の物語に導かれるように、春菜は赤ん坊であった頃に祖谷に導かれ、都会から逃げるように工藤はやってくる。村には文字通り異国人たちがやってきていて、共同生活を営みながら、トンネル工事に反対する。そもそも今祖谷に住んでいる者たちも、落武者伝説は置いておいても外から来た人間であり、林業のために動物たちの住処を荒らし、住処を追われた動物たちによって畑を襲われているという状況が語られる。しかし、祖谷の住人たちや外国人たちとの対立、内と外をめぐる対立は、虚しい。赤ん坊であった春菜を見つけ育てたお爺は、「石や木のように」劇中一度も言葉を発しない。「おくのひと」という副題はまず彼を指すものだ。人間たちの言葉で言い争う内と外の「おく」で、彼は生きているのである。春菜と共に暮らす家は「おく」と人間たちとの境界であり、劇中で象徴的に何度も渡られるかずら橋の向こうの山・森が、お爺の領域なのである(とはいえ彼とて、人間である春菜を育てるためには、集落で木を売って金を得なければならない)。
 内と外をめぐる対立は、虚しい。劇中、案山子たちが動き出し、人間たちの動きを真似て働き、バスに乗って谷を出て行く幻想的な光景が映しだされる。そのコミカルでありながらどこか不気味な光景は、「おく」=自然、あるいは「魔」にとって、人間と案山子はそれほど違いのあるものではないことを示しているようである。お爺は言葉を話さず、環境問題を巡る人間たちの争いは、その程度のものなのだ。 
 しかし、人間たちはお爺のようには生きられない。祖谷にも資本主義は入り込んでいる――先に触れたようにお爺も金を得なければ春菜を養えず、春菜の友人はホテルを営む家の娘であり、お爺の働けなくなった後では春菜は工場で働いている。トンネルが開通した直後、村のある男は都会へ吸いだされていく。
 ところが、都会からやってきた工藤は逆に、金を得られる仕事はせずに畑を耕し、飢えて木の根を食べながら、冬を越える。そして彼は「おく」へと近づいていく。
 お爺は行方不明になる。それからおそらく数年後の東京に舞台は移り、そこで春菜は男の家に住みながら、研究の仕事をしている。そこで仲間とともに水をクリーンにするバクテリアの塊を開発するが、社会的圧力によって研究は止められ、バクテリア塊は燃やされることになる。都会での春菜の表情はおぞましい。祖谷にいてする険しい表情と東京の場面での険しい表情、独り歩くその歩き方も、どこか異なっている、醜くなってしまっているように見える。祖谷の植物の緑と雪の白一面の画面の中にいた春菜が東京の四角く切り取られた灰色の世界でコンビニの弁当を食べ生きている様は、ホラーじみてさえ感じられるだろう。
 東京は紛れも無く我々の暮らす街である――早稲田松竹で観た我々でなくとも、祖谷の自然のあとに映し出される灰色の世界を観れば、自らの暮らす世界がそちら側であることを思い出させられるだろう。美しい世界に入り込んでいた観客たちは、ずっと祖谷で暮らすと語った春菜が東京に引きずり込まれたように、そこで現実に連れ戻される。
 そして、我々と春菜を祖谷へと再び導くのは、やはり魔である。コンクリートに囲まれた東京の川にバクテリアの塊を投げ捨てた春菜は、河原に打ち捨てられた案山子を発見する。緑色に発光するバクテリアが東京湾を染めていく間に、彼女はその案山子を連れて、あるいは案山子に連れられて、祖谷に戻る。
 祖谷の霧が晴れ、彼女は整備された畑で、爺やと呟く。そこにいるのは工藤である。

 『祖谷物語』は美しい、涙の出るほど美しい映画である。しかし、美しさだけで終わりはしない。祖谷の細部にまで浸透した資本、灰色のグロテスクな都市・東京を映しだし、そこで生きる人間たちの醜さを、そこで生きる人間たちにまざまざと見せつける。そして春菜=武田梨奈の工藤に見せたのであろう美しい笑顔の後で、カメラは二人から遠ざかり、俯瞰で祖谷の集落を映す。我々は、祖谷の中にいることを許されない。

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