大森靖子「ミッドナイト清純異性交遊」「君と映画」のPVを発展させたような映画で、私のまわり(?)では大森靖子が出ているとか大森靖子が主題歌だというところで話題になっていたような気するが、それほど彼女の世界観が絡んでいるという感じはせず(無論インスパイアされているのだろうが)、アイドルをやっている女の子(橋本愛)とそのファンの少女(蒼波純)が、アイドルの恋人であり少女の恋の相手である男を共通の敵として仲良くなるも引き裂かれ、でも最後は……というストーリー。途中から男がゾンビになっていたり大森靖子がうさぎのきぐるみを着ていたりと、無理のある感じで虚構性を増していく、そんな映画である。

 この映画のキモはそんなストーリーやシュールリアリズム(??)な手法ではなく、橋本愛と蒼波純のかわいさである。この映画には「さよなら、男ども。」というキャッチコピーがあるが、共通の敵となった男を排除してからの橋本愛と蒼波純の絡みは、「完全」とでも呼びたくなるようなものである。蒼波が橋本を押し倒し、そして見つめ合う! 私に百合の趣味はないが、危うく目覚めるところであった……。

 加えておもしろいのはこの映画におけるコミュニケーションである。蒼波(もちろん役名はあるのだが、もう蒼波と呼んでしまいます。)の配信するツイキャスで、視聴者がゼロから一になったとき(その一は橋本なのだが)、彼女は「コメントください コメントコメント〜」と語りかける。しかし、見始めた直後の者に求めるコメントとは何だろう? 挨拶? 二人が別れることになったとき、橋本は「あみちゃん!」とLINEで名を呼び、蒼波は「しおりちゃん」と返し、今度は音声で「あみちゃん」と名を呼び、「しおりちゃん」と音声で呼び、スタンプを送り合う。母親にiPhoneを取り上げられた後には、学校の友達と蒼波は「寒いね」「うん寒いね」「桜散っちゃったね」「散っちゃったね」といった会話や、「ばいばい」「ばいばい」「ばいばい」「ばいばい」「ばいばい」「ばいばい」といったやりとりを行う。

 こういったやりとりを、ロマン・ヤコブソンは交話的コミュニケーションと呼ぶ。意味内容を伝えるのではなく、コミュニケーションをしている、繋がっていることを示すためのコミュニケーション。この映画には、交話的コミュニケーションに満ちていた。「コメントください」と誰かもわからぬ視聴者に語りかける蒼波は、何か意味のある言葉を貰いたかったわけではない。ただ、話を聴いているということを、繋がっているということを示してほしかったのである。車に乗せられ離れていきながらLINEで交換されたのは、意味のある言葉ではない。ただ、名前を呼び合い、スタンプを送り合うことで、離れても繋がっていることを示しあったのである。彼女の、友人と行うコミュニケーションは、決して意味のある対話ではない。ただ、繋がっていることを、互いに示し合っているのである。思えば、橋本の前で、何も言えなくなった男の見せる逆立ちも、言うなれば電話口での「もしもし」のような、応答を求めるための交話的なであったのかもしれない……橋本は応答しないのだが。

 意味内容のあるコミュニケーションを、蒼波は拒みもする。男を部屋から追い出し、互いにiPhoneのカメラを向け合い笑い合う中で、橋本は蒼波に、「好きなの」「尊敬している」「憧れている」といった告白をする。しかし蒼波はその告白の途中で突如部屋を飛び出し、逃亡する。橋本はそれを追いかけるが、やがて公園にたどり着いて行われる追いかけっこは、既に交話的コミュニケーションであると言えるだろう。ついに蒼波を捕まえても、橋本はもう何も言わない。二人はただ体をくっつけ合うだけだ。

 交話的コミュニケーションは意味内容を伝えるためのものではない。しかし、だからといって価値がないわけではない。この映画の中で繰り返される交話的コミュニケーションの美しさはその証明であろう。意味内容を伝えるコミュニケーションの不可能性は今更言うまでもなく現実のものであるが、その点で、交話的コミュニケーションは、発信と応答の行われた時点で完全なものである。この映画の美しさは、二人の女の子の関係の、その閉じられた完全さにあるように私には思われる。

 映画の終わりに、蒼波と手を繋いで走っていきながら、橋本はカメラに向かって笑顔で、「来ないで」と叫ぶ。意味内容のないコミュニケーションは、意味がない――それはあるいは、そんな価値観を持つ「男ども」に向けられた「来ないで」かもしれない――もしそうであれば、このように映画から意味を求めようとする態度もまた、「来ないで」と言われてしまうのだろうが。

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大森靖子

絶対少女 魔法が使えないなら死にたい PINK トカレフ

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