池松壮亮と休憩中に懇談。洋が「女を殴る」ことについて、洋がイヤな男にしか見えなかったら映画として辛い、と私は危惧したが、池松はその「匙加減」には確信があるようだった。「ボクが邪魔をしなければいいんです、これは恵美子(市川由衣)の映画なんです」と。
(成田尚也「『海を感じる時』制作ノート」(パンフレットより))

 まさに「イヤな男」に染まりきらない「匙加減」で70年代の悩める青年を演じきった、その上でこのようなことを言えてしまう池松壮亮の実力は確かだろうが、彼の言うとおり、『海を感じる時』は完全に、市川由衣の映画だった。

 あまりドラマや映画を観ない私の覚えている市川由衣はドラマ『H2 ~君といた日々』や『クロサギ』の彼女で、どちらもおよそ10年前のドラマだから彼女はあれからおよそ10年歳をとっているはずである。10年前の彼女は女子高生・学生役で、うろ覚えであるが確かヒロインの恋敵、純情なヒロインとどこか色っぽい恋敵という感じであったと、少なくとも私の記憶ではそうなっていて、当時中学生だった私は素直に石原さとみに惚れつつ、市川由衣の色気にドキドキした。
 しかしそれから市川由衣を見ていない。見たかもしれないが記憶にはない。『H2』の石原さとみや『クロサギ』の堀北真希が数多くのCMに登場し僕ももう何度「石原さとみかわいい」「堀北真希かわいい」と呟いたかわからないが、しかし市川由衣は見ていなかった。その彼女が脱いだ、と映画館での予告編で見た時も「ふーん」としか思わなかった。しかし10年前と変わらず女子高生役というのが個人的にツボで、厳しいんじゃないのかなー、と思いながら、映画館に足を運んだ。
 そして市川由衣が、素晴らしかった。彼女は確かに美しいヌードを披露していたが、それはアイドル女優のヌードではなく、28歳の女性の、リアルで、しかし現実離れして美しいヌードであった。
 市川由衣演じる恵美子は作中で3年程歳をとる、のだが、とても3年の月日には見えない。私には10年の歳月が見えた。それはリアリティとして、女優としてどうなんだ、という話でもあるかもしれないが、しかしその歳のとり方は抜群に美しいから、私は肯定したい。
 恵美子には二重性がある。片方には独立した女、母と対等に渡り合え、後輩の女子に「ねえさん」と呼ばれる強さ。片方には、「誰でも良かったんだ」と言い切る恋人(?)・洋や母の背中に対して見せる切なげな哀願・涙といった弱さ。彼女はどちらかに偏るようなつまらないヒロインではない(原作、というよりも(僕的には)未熟な点の多い原作「海を感じる時」に同作家の「女ともだち」を重ね合わせ昇華させた脚本家・荒井晴彦の力量を感じる)。
 自分を必要として欲しい、誰かに必要とされることで自分を支えたいと願う彼女にすがりつかれて、「ねぇ……」と囁かれて、抗える男もいないだろう。弱さ故に媚び、粘っこくまとわりつく、(劇中の洋のように)振り払っても振り払えない、そんな女性性。このような女性性に、男は苛々しながらも抗えないものである。そのような恵美子を演じる市川由衣は、少女のしばしば本能的に見せる蠱惑的な表情を見せる。
 独りで生きていける方の彼女は独りでも居酒屋に入って日本酒を飲み煙草を吸う。未成年という設定だが、時代背景を考慮しなければならない――当時は、今の若者よりも、大人になるのが早かったのだろうか? そのような時の彼女には、市川由衣の実年齢、「28歳」が伺われる。そこに一切の弱さがないわけではない。実家で独り酒を飲みながら彼女は、在りし日の父のピアノの音色や、母の針仕事の快活なリズムを思い出し、寂しげに微笑む。しかし、翌朝、下着姿で海を見つめる彼女はやはり、一人で立つことのできる女だ。
 もちろん、独りで生きていけない女から、独りで生きていける女に成長する、という単純な話ではない。この両者は、恵美子の揺れ動きの両極端であり、二重性だ。高校生の頃の彼女は洋の影響から煙草を吸ってみながら、ブランコを大きく揺らす。数年後の彼女は、居酒屋で酔っ払って女友達と落ち葉を舞い上げて、かけあって、遊ぶ。数年しか経っていないのだから当然だが、別に恵美子は大人になるわけではない。ただ、市川由衣の垣間見せる積み重ねた28年の年月が強い。それが、恵美子の揺れ動きを大波にする。
 揺れ動き――それは「海」のようでもある。「海」はタイトルにも使われているが、海辺の場面がそう何度も反復されるわけではない。しかし、ブランコや、大量の落ち葉が、波や海原を連想させるのは間違いない。こじつけめいてはいるが、雨に閉じこめられ、濡れた裸の体で寄り添い合う恵美子と洋、恵美子が魚を捌く横で母の煮えたぎらせる鍋の中の油、性行為の中で揺さぶられる恵美子、リズムよく腰を揺らしながら針仕事をする母といった、様々な場面で、「海」を感じることができる。

私の意識はしだいに拡散していった。広い広い海のさざ波のくり返しの上へと、私は漂っている。漂っていった。
中沢けい「海を感じる時」(『海を感じる時・水平線上にて』 講談社文芸文庫

これは原作、中沢けい「海を感じる時」の最後の場面である。海は「くり返し」だ。映画の最後、波に足を洗わせながら独り、下着姿のままで立った恵美子は、おそらく「くり返し」、上記のような「揺れ動き」を映画の終わった後も生き続けるのではないか。「女は海」とはあまりにも使い古されたクリシェだが、それが中沢けいの私小説風に描き出した(恵美子は中沢けいの本名である。筆名を変えたところに、彼女と作中の恵美子との距離感も見なければならないだろうが)感覚であり、また映画の製作陣が引き継いでいるものでもあるだろう。それ以上の妄想は心の中に留めておきたい。しかし海辺に立った恵美子は、28年分歳を重ねた女性にしか見えなかった。恵美子であるというよりも、市川由衣、あるいはそこに映しだされたその女性そのものであるように感じられた。
 最後に、原作を引いたので記しておくが、映画の中の台詞はどこか時代がかっている。それが当時の言葉遣いなのか、それとも単に文学の言葉の引用なのか、90年代生まれの私には判断し難いのだが、しかしそうした言葉遣いに関わらず、恵美子や洋は非常にリアリティを持ち、切実であった。スクリーンに映しだされた彼女たちの身体、息遣いの為せる技なのであろう。
 『海を感じる時』は、“市川由衣の映画”だった、と私は言いたい。恵美子の映画でなく、“市川由衣の映画”であった。恵美子の物語よりもずっと、市川由衣自身が切実なものとして私の目に映り、作中人物は彼女と重なりあってしまった。もちろんこれは私が、スクリーンに映る彼女が市川由衣であることを意識しながら観てしまった故の感想であろうが、しかし、彼女にそれだけの実力と魅力があるのは、確かではないだろうか?

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