日本語学のレポート。うーん恥ずかしい……結局日本語学については何もわかりませんでした。

1,はじめに

 「親譲の無鉄砲で小供の時から損ばかりしている。」から始まる夏目漱石『坊っちゃん』の冒頭部は名文、名書き出しとして広く親しまれているがで、この小説の結尾の部分もまた、冒頭部ほどではないにしても、名文として知られている。

清は玄関付きの家でなくっても至極満足の様子であったが気の毒な事に今年の二月肺炎に罹って死んでしまった。死ぬ前日おれを呼んで坊っちゃん後生だから清が死んだら、坊っちゃんのお寺へ埋めて下さい。お墓のなかで坊っちゃんの来るのを楽しみに待っておりますと云った。だから清の墓は小日向の養源寺にある。
(夏目漱石「坊っちゃん」『夏目漱石全集〈2〉』ちくま文庫、1987)

殊に最後の一文が、おそらく井上ひさしの『自家製 文章読本』における紹介の影響のためであろうが、人気の高い一文となっているようである。この一文を井上は高く評価し、「日本文学史を通して、もっとも美しくもっとも効果的な接続言という賛辞を贈りたい。」「ここでは接続言は思考の操舵手や転轍機であることをはるかに超えて、ばあやの後生をねがう坊さまにまでなっている。「だから」の三文字は百万巻の御経に充分拮抗し得ているのである。」といった言葉を以って称えている。
 私個人としても、井上のように「だから清の墓は小日向の養源寺にある。」という一文に美しさを感じ、心を動かされるのであるが、しかしそのような感情を引き起こす原因は定かではない。彼の『文章読本』の具体例として挙げられている『坊っちゃん』の一文に対し、井上の説明は修辞的になっており、その絶賛の根拠は曖昧だ。そこで本稿ではまず、この最後の一文の「だから」に対する、井上ひさしの評価の根拠を定かにしたい。そしてそれに加えて、彼の言及していないところから、この一文の持つ優れた「効果」と「美しさ」の基となっていると考えられるものを、日本語学的観点から明らかにしたい。

2,井上ひさしの絶賛

 井上ひさし(1987)において、『坊っちゃん』が扱われているのは「文間の問題」という章においてである。
ここで問題にされている文間とは、「前の文と、次の文との、間のこと」のことであり、また文と文との関係の仕方という意味で、文間文法という用語が使われ、小林英夫(1956)によれば、文間の関係は接続詞や例えば「これをしてから、それをする」といった語を含む「接続語」によって表現される(井上はこの「接続語」を、江戸後期の蘭学者の用語から「接続言」という言葉によって表している)。文間に接続語を用いることは、文と文の関係の存在とその関係の種類を明示することであり、読者の理解を容易にしようとするものである。
 接続語は前文の論理を次の文へと橋渡しするものであるが、井上ひさしによれば、接続語を多用することによって文間の余白は浅く、狭くなる。文間の余白とは読者の埋めるものであり、その余白を埋める行為を井上は「意味と意味とを自分で繋ぎ、そして新しい意味をつくり、ついには意味に向って行動する主体となる。」と説明し、読書の楽しみであるとして肯定的に捉えている。
 そして、夏目漱石の文体について井上ひさしは、「文間の空白は浅くて狭い。時には文間がない、とさえ云ってもいいぐらいである。」と説明している。しかし、以下に引く『草枕』の冒頭の文章を見れば明らかなように、漱石は接続語を使わずに、「文間から余白を締め出した」のだ、と井上ひさしは述べる。漱石は、小林英夫や井上ひさしの述べる文間文法の基本的な法則に逆らった文体を持っているのである。

山路を登りながら、こう考えた。/智に働けば角が立つ。情に棹させば流される。意地を通せば窮屈だ。とかくに人の世は住みにくい。/住みにくさが高じると、安い所へ引き越したくなる。どこへ越しても住みにくいと悟った時、詩が生れて、画が出来る。/人の世を作ったものは神でもなければ鬼でもない。やはり向う三軒両隣にちらちらするただの人である。ただの人が作った人の世が住みにくいからとて、越す国はあるまい。
(夏目漱石「草枕」『夏目漱石全集〈3〉』ちくま文庫、1987)

 そして、「とはいうものの、漱石は一方では文間の余白づくりの達人で、接続言のすぐれた使い手でもあった。」と井上ひさしは続け、本稿の冒頭で引いた『坊っちゃん』の結尾を引用する。そして、『坊っちゃん』の「だから」は接続語でありながら、深く広い文間の余白を生んでいるというのだ。
 「だから」という語は、「先行の事柄の当然の結果として、後続の事柄が起こることを示す。理由を示す。」(『日本国語大辞典』)と説明されるように、論理的機能を持つものであるが、問題にしている一文ではその論理に飛躍がある。
 清の「お墓のなかで坊っちゃんの来るのを楽しみに待っておりますと云った」その対象は主人公の「おれ」であるが、清の言葉を受け取った「おれ」の感情や行動は語られない。しかし、清が彼女の望んだとおりに「坊っちゃんの墓」である「小日向の養源寺」に埋められたのは、その語られない「おれ」の感情と行動によってであるはずだ。文間の余白とは読者の想像、意味創出を促すものであったが、ここでは、長年自分に愛情を注ぎ続けてきた清に対しての「おれ」の感情や行動、語れなかったものが、読者に委ねられている、と言えるだろう。その委ねられた部分こそが、井上ひさしの言う「深く広い文間の余白」であり、またそれを生んだからこそこの「だから」を「もっとも美しくもっとも効果的な接続言」であると称賛しているのだ。

3,「だから」以外の可能な語と文体差について

 しかし、ただ深く広い文間の余白が生じているためにこの「だから」が「もっとも美しくもっとも効果的」であるとすれば、それは同様の機能を持つ他の接続語でも構わないはずである。
 日本語記述文法研究会編(2009)『現代日本語文法7』によれば、「だから」は「後続部が先行部が原因で生じた結果」であることを示す「確定条件」の接続語であり、それは「だから」「それで」「そのため」「したがって」「ゆえに」「よって」「そこで」と同じ分類である。しかし、それらの語には文体差があること、またそれぞれ代替可能な場合とそうでない場合があることが指摘されている。
 例えば中村明(2010)は、「だから」を「比較的くだけた会話や、さほど硬くない文章に使われる」「「したがって」よりもやわらかい感じで、上の立場から教えるような雰囲気や、理屈っぽさが少ない」と説明している。彼はまた「したがって」を「改まった会話や硬い文章で用いられる」「「だから」などに比べ、上の立場から理論的に説き聞かせるような雰囲気が感じられる」と説明しており、そこに文体差を見ていることは明らかだろう。
 また高野愛子(2012)は、非日本語母語話者=日本語学習者の作文を分析し、「ですから」を用いやすい「です・ます体」においても、客観性の強い場合には「だから」は使いにくく、「だ・である体」においても個人的な話題(自己紹介など)においては「だから」を許容できるとしつつ、日本語記述文法研究会編(2009)の分類について、用法の種類によってその使用を許容できるかどうかが変わること、どれが入れ替え可能でどれが入れ替え不可能か、といった検証が不足していることを指摘している。
 文体や文章の中身という観点から考えれば、『坊っちゃん』は「おれ」による一人称の語りとなっており、中村の言う「比較的くだけた会話や、さほど硬くない文章」であると考えられ、実際「したがって」や「ゆえに」といったような「硬い」言葉は用いられない。また、「だ・である体」(普通体・常体)に分類され、「ですから」も用いられない。
 なお、中村(2010)や高野(2012)に対して、劉怡伶(2006)は、学術論文において「だから」が用いられないのは文体差に帰するべきではなくむしろ話し手の認識・認定の特徴から論じるべきで、また「しかし/でも、だから〜」「だからこそ」「だからといって」が可能なのに対し、「ですから」はそういった使い方ができないことから、意味・用法上異なっているとしており、先に書かれていながら両名よりもより深く考察を進めているのだが、両名の客観性や個人的な話題の場合に関する分析には妥当性があるだろう。
 実際に『坊っちゃん』で、本稿で問題にしている「だから」と入れ替え可能と思われる、同じく文頭で用いられている「確定条件」の接続語の数は、「だから」が7回、「それで」が4回、「そこで」が1回で、「そのため」「したがって」「ゆえに」「よって」が0回である。先に弾いた研究において示された文体差、語られる内容による差を踏まえると、『坊っちゃん』において、「だから」「それで」「そこで」以外の「確定条件」の接続語が用いられるとは考えにくい。では、「それで」、「そこで」の場合と「だから」の場合で、最後の一文に対する印象はどのように変化するのか、あるいはしないのか、次章より考えていく。

4,「だから」と代入可能な語の使い分け

 実際に、①元の文である「だから」の場合と、「だから」の代わりに②「それで」③「そこで」を入れた場合の文を、以下に示す。

①,お墓のなかで坊っちゃんの来るのを楽しみに待っておりますと云った。だから清の墓は小日向の養源寺にある。
②,お墓のなかで坊っちゃんの来るのを楽しみに待っておりますと云った。それで清の墓は小日向の養源寺にある。
③,お墓のなかで坊っちゃんの来るのを楽しみに待っておりますと云った。そこで清の墓は小日向の養源寺にある。

 印象論になってしまうが、②、③の場合は、①と比べ、あっさりとした感じを受ける。①の場合は語り手の意思が「だから」に込められているように感じるのに対し、②、③では、自然とそうなった、とでもいったような感じを受けるのだ。この印象を、普遍的な機能として説明することはできるだろうか。

 まず、萩原孝恵(2006)が参考になるだろう。日本語学習者に「だから」「それで」「そこで」の使い分けをどのように教えるか、が主旨の論文であるが、その中で彼女は「だから」は「それで」「そこで」よりも因果関係を積極的に示す意志があり、また「だから」の後に続く文には「話し手の判断・主張が強く現れる」としている。それは、「腹が空いた。だから食べたい」といった意思表現と、「だから」は共起しやすいのに対し「それで」「そこで」は共起しにくいことなどから導かれる。
 「だから」が用いられていることによって因果関係が強調され、読者も因果関係のあるものとして余白の意味を創出することになる。
 劉怡伶(2006)もまた、「だから」に関する興味深い知見を提供する。彼の研究によれば、「だから」の前件である「P」を条件、後件「Q」を前件から推論した帰結に話し手の判断・態度=話し手の主観の加わったものとして、「P→Q」という知識、すなわち「一つの条件からただ一つの帰結が導かれる」知識があり、その知識は「だから」を用いる話し手の中で働いている。
 例えば「したがって」と違い、「だから」は「私は人間の正義を信じていません。でも、だから、夫のような誠実な人がいることがうれしいんです。」(毎日新聞 96.8.18)といったように逆説の接続語と共起可能である。「だから」は前件からの聞き手の推論に反する後件を導くことができるのだ。これは、因果関係の知識が聞き手の中にも成立している(成立する)かどうかを問題としていない(仮定していない)ためである。「だから」は他に排他的な意味を持つ助詞「こそ」や不確かなことを表す助詞「か」などとも共起するが、「だからこそ」と言う時には、話し手は聞き手に対し、自己の中の因果関係の知識の成立を強く訴えており、「だからか」と言う時には、その因果関係の知識が成立する可能性があることを主張している。「だから」を用いることは、因果関係の知識の成立を主張することなのだ。
 これらの議論から、『坊っちゃん』の最後の一文の「だから」を考えることができるだろう。「だから」は、話し手の中で因果関係の知識が成立していることを表す語であり、聞き手にとってどうであるかは問題としていない。そのため『坊っちゃん』の「だから」からも、語り手の意志・主張、清に対する思いまでをも、感じることができるのではないだろうか。

5,まとめ

 当然あるはずの「おれ」の感情・行動が語られず、「だから」という語によって論理の空白が作られることによって、それらを読者の想像する余地が大きく残される。これが、井上ひさしが『坊っちゃん』の最後の一文の「だから」を「もっとも美しくもっとも効果的な接続言」であると称賛する所以である。しかし、それだけでは、他の接続語であっても変わらないのではないか、という疑問が生ずる。
 『坊っちゃん』の文体から、「だから」「それで」「そこで」以外の語は現れにくい。「だから」という語は中村明(2010)、高野愛子(2012)の言うようにどちらかというと主観的な判断、個人的な話題の場合に用いられる。また萩原孝恵(2006)の示すように、因果関係を積極的に示す意志を、「それで」「そこで」よりも「だから」は感じさせる。さらに、劉怡伶(2006)の述べるように、「だから」を用いることは読者(聞き手)に対して因果関係の知識の成立を主張することでもあった。これらのことから、他の「確定条件」の接続語ではなく「だから」であるために生じる効果を考えることができた。
 描写されていない「おれ」の感情・行動が井上ひさしの評価するようにその文間の余白にあって読者の想像に任されており、それが楽しみとなっているのも確かである。しかしこの「だから」そのためだけに美しく、効果的なわけではない。「だから」という語特有の意味・用法によって、語り手は「清に云われた→それに従う」という因果関係の知識の成立を、強い意志をもって読者に主張している、と考えることができる。おそらく「だから」のそうした用法が、読者の印象に作用するのだ。この因果関係の知識の成立は、「おれ」のまさに言葉にできなかった感情によったものであったはずである。この、「だから」という語にこめられた愛も含めて、『坊っちゃん』の「だから」は「日本文学史を通して、もっとも美しくもっとも効果的な接続言」と称されるべきだろう。

参考文献
・井上ひさし(1987)「文間の問題」『自家製 文章読本』新潮文庫
・小林英夫(1956)「文体」『講座日本Ⅵ 国語と国字』大月書店
・高野愛子(2012)「接続詞「だから」をめぐる文体差」東京外国語大学留学生日本語教育センター論集 38, 東京外国語大学留学生日本語教育センター
・中村明(2010)『日本語 語感の辞典』岩波書店
・日本語記述文法研究会編(2009)『現代日本語文法7 第12部 談話 第13部 待遇表現』くろしお出版
・萩原孝恵(2006)「「だから」と「それで」と「そこで」の使い分け」群馬大学留学生センター論集 6, 群馬大学留学生センター
・劉怡伶(2006)「接続語「だから」の意味・用法 : 前件と後件に因果関係が認められる「だから」を中心に」世界の日本語教育. 日本語教育論集 16, 独立行政法人国際交流基金

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