4061960474 桜島・日の果て・幻化 (講談社文芸文庫)
梅崎春生
講談社 1989-06-05

 「桜島」が発表されたのは1946年、戦後間もない頃である。題のとおり梅崎春生が終戦を迎えた地、桜島を主な舞台にした小説であるが、しかし物語は7月の坊津から始まる。そこで彼は桜島への転勤を命じられ、文庫にして9ページ目には到着するのであるが、その途上の小さな町の妓楼で出会い一夜を共にすることになる右の耳のない女、彼女と主人公の間に交わされた言葉が私にはとても印象深い。

「桜島?」
 妓は私の胸に顔を埋めたまま聞いた。
「あそこはいい処よ。一年中、果物がなっている。今行けば、梨やトマト。枇杷は、もうおそいかしら」

 私は鹿児島の出身であるが、桜島とはやはりこういったイメージの土地である。噴火も鹿児島人にとっては慣れたもので、ただのどかな観光地、南国の日差しにきらめく海、果物や野菜――桜島は「いい処」なのだ。私の、そしておそらく多くの鹿児島人の持つこうしたイメージと、妓楼の女の持っているイメージは、近い。しかし1945年7月、米軍による沖縄制圧がほぼ終了していたその時、桜島は米軍機の頻繁に飛来する、ほとんど最前線であった。妓楼の場面は以下のように続く。

 妓は顔をあげて、発作的にわらい出した。しかしすぐに笑うのを止めて、私の顔をじっと見つめた。
「そして貴方は、そこで死ぬのね」
「死ぬさ、それでいいじゃないか」
 暫く私の顔を見つめていて、急にぽつんと言った。誰に聞かせるともない口調で――
「いつ上陸して来るかしら」

 女にとって遠かった戦争が、死が、初めて身に迫ったものとして感じられた瞬間であろう。
 確かに本作は戦争体験の記述である。そこには梅崎春生自身の体験も色濃く反映されているだろう。しかし、そこに書き込まれているものは戦争の悲惨さ、死を前にした男の叙情のみではない。この桜島を「いい処」と言う妓楼の女や、桜島での業務中に思い出す「戦争とは関係のない静かな街」本郷といった戦線から遠い場所。それらと戦争の、その驚くべき距離の近さである。戦中の、しかし敵を目の前にはしていない女の語るイメージが、私の今持っているイメージと重なる――戦争や死が鹿児島と沖縄の距離程度に迫っていても、我々はおそらくそれに気づけないだろう、ちょうど「桜島」の女のように。

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