4309408419 蹴りたい背中 (河出文庫)
綿矢 りさ
河出書房新社 2007-04-05

 蹴りたい背中は二度蹴られる。一度目は嫌悪感からであった。では、二度目は……?

 さびしさは鳴る。耳が痛くなるほど高く澄んだ鈴の音で鳴り響いて、胸を締めつけるから、せめて周りには聞こえないように、私はプリントを指で千切る。細長く、細長く。紙を裂く耳障りな音は、孤独の音を消してくれる。気怠げに見せてくれたりもするしね。葉緑体? オオカナダモ? ハッ。っていうこのスタンス。あなたたちは微生物を見てはしゃいでいるみたいですけど(苦笑)、私はちょっと遠慮しておく、だってもう高校生だし。ま、あなたたちを横目で見ながらプリントでも千切っておきますよ、気怠く。っていうこのスタンス。

 この冒頭、評価する人は評価するし、下手だと言う人は下手だと言うのだが、正直私も、文章としては上手くないと思う。というのも、この小説の最初の段落、やけに浮いているのだ。「(苦笑)」「ハッ。」のようにアナログと言ってもいいほどにライトな表現は、この最初の段落でしか使われていないと言える。小説において書き出しの大切さが強調されるのは重々承知しているが、それにしても文章全体に対して、かまし過ぎだろう……文章の観点から見れば、下手であると私は思う。しかし、小説、という観点から見れば、傑出した書き出しであると私は考えている。この最初の段落から、この小説全体を貫くテーマを十分に読み取ることができるのだ。
 「せめて周りには聞こえないように」「気怠げに見せてくれたりもするしね」「ま、あなたたちを横目で見ながら」という「スタンス」。これが「私」である。ここに、主人公「わたし」の行動原理がある。彼女は、見られることをひどく恐れている。そして、他者を見る側に、常にあろうとしているのだ。見られたくなく、見ていたい。その根底にあるのは、もちろん「恥」の感覚である。見られていない限り、恥ずかしい思いをしなくてすむ。
 彼女に象徴的に「恥」の感覚を植えつけたのは、アイドルモデルである「オリチャン」であった。

「ごめんね、こんなことさせて。」
 まるで悪意のない言い方、なのに、”恥ずかしい”の弾がぶちこまれた。身体が、ぽっと熱くなる。もしかして今私、みっともなかったんだ。

 オリチャンたちの前でやってしまったこと。それが彼女たちを引かせてしまったこと。これを皮切りに、彼女が自らのまわりに膜を築き始めたのは想像に難くない。
 ところで「オリチャン」とは少々奇妙な名前である。作中に出てくるオリチャンの文章の中で彼女は自らを「Oli」と呼ぶが、これは「オリ」と書くことがはばかられるからではないか? というのは外れているかもしれない。しかし、おりものとはまた違うであろうが、落ちた血が恥ずかしい、というイメージは「膝小僧の血が運動場の白い地面についている。なんとなく恥ずかしくて、スニーカーの裏で消し、それから太陽の光が照り返ってまぶしい白い地面の上を、痛む膝を引きずりながら歩いた。」確かに書き込まれている(もっと言えば、にな川の作ったオリチャンのコラージュ写真は「赤茶けている」が、言い過ぎですね)。恥の感覚を植えつけたオリチャンとおりもの・月経を連想させる血を結びつけるこの説を詳しく論証することはしない(難しい)が、恥の感覚が「私」を規定していることはわかっていただけただろう。
 さて、オリチャンに恥の感覚を植えつけられた事件、その記憶は、オリチャンのファンである「にな川」と話すうちに思い出される。そしてにな川について、「あの日、オリチャンの目に、私もこんなふうに映っていたのかもしれない」と「私」は語る。彼女にとって「にな川」はあの頃の、恥の感覚を知らない「未熟な」自分のごとき存在だ。一度目の「蹴り」は、このことを背景にしていた。自分と似ていながら、自分と同じようにクラスから浮いている、未熟な、自分より劣っている存在、それへの嫌悪感を含めて、彼女はにな川を蹴った(解説の斎藤美奈子は性的欲求からと言うが、それもありだろう)。自分より劣っている存在、という見方が間違ったものである、ということに彼女が(無意識化に)気づくのは、まだ先である。

こんな物を見られて恥ずかしがりもしない。盗った私を怒りもしない。ファンシーケースまで這っていき、洟をすすりながらつぎはぎ写真を慎重にスクラップブックに挟む彼を見て、ぞっとした。まるで私なんか存在しないみたいに、夢中になって写真を眺めて、もうこっちの世界からいなくなっている。こんなことを繰り返していたら、いつかこっちの世界に戻ってこられなくなるんじゃないか。思わず彼の腕を掴んだ。

にな川の成長の先に「私」はいない。そのことにおそらく、「私」は無意識化で気づく。それはこの引用から続く場面においてである。にな川との会話の中で「私」は、彼が自分とは違っている、「こっちの世界」の住人ではない、自分とは違った「世界」の住人であると気付かされる。私は「見られない」ように生き、「見る」側に回ることで自分を守っている。それに対してにな川は、ただ幻想のオリチャンとの関係の中でのみ生きることによって、自分を守っている。それは「こっちの世界に戻ってくる」ということのありえないことを示しているだろう。二人がいっしょになるには、二人が共に新たな「世界」に行く必要がある。
この引用とそこから続く場面で重要なのはそれだけではなく、「私」が「まるで私なんか存在しないみたい」と、語っていること、「というか、にな川って、目がどうとか、私のこと見てたなんて。」と、自分もまた見られていたことに気づくこともまた、大きな意味を持っているだろう。見られることを拒絶していた「私」が、にな川に対しては、それほどの嫌悪感を見せないのだ。また次に引用する箇所は、ラストシーン、二度目の蹴りの伏線となっている。

お互いの唇が触れたことはなかったことにされている。というか、自然に消え去ってしまった。クッションを指で押しても、柔らかな弾力で、すぐにへこみが消え失せ、また元のなだらかな表面に戻るように、自然に。

 にな川と「私」が生のオリチャンを見に行くことを約束するこのシーンは、二人とその関係性にとって非常に重要なシーンとなっているのだ。にな川が劣った存在として下にいるのではなく、自分とは違った存在として隣にいることに「私」は気づいた。そして、それぞれがそれぞれを現実から守っている膜から抜け出す、「成長」の布石として、二人はオリチャンに会いにいく。

そう、彼を止めなければ。でも動けない。自分の膜を初めて破ろうとしている彼はあまりにも遠くて、足がすくむ。

 この後に、オリチャンを間近で見たことで、自分と関係性を築き、甘い世界を形作っていたオリチャンが、幻想に過ぎなかったことににな川は気づく。そして彼は自分の「部屋」を「出」て、ベランダで眠る。彼は自分の膜を破り、「私」よりも先に新たな世界へ、抜けだした。しかし「私」も、すぐに彼を追いかけることになる(クラスでの人間関係に執着する友人を「部屋」に残して)。それが、あの美しい、新しい朝の予感に包まれたラストシーンだ。

同じ景色を見ながらも、きっと、私と彼は全く別のことを考えている。こんなにきれいに、空が、空気が青く染められている場所に一緒にいるのに、全然分かり合えていないんだ。

 しかしそこには希望がある。彼らは既に「同じ景色」の中で、他者として再会したのだ。それはここでは、意識的である。そして、彼らが分かり合う日は近い。いや、「分かり合う」ということが幻想であったとしても、彼らの関係性が対話的なものになっていくことは間違いない。
 彼女は、にな川の背中を蹴る(「足をそっと伸ばして爪先を彼の背中に押し付け」る)。それは、見てくれ、というサインである。

 にな川は振り返って、自分の背中の後ろにあった、うすく埃の積もっている細く黒い窓枠を不思議そうに指でなぞり、それから、その段の上に置かれている私の足を、少し見た。親指から小指へとなだらかに短くなっていく足指の、小さな爪を、見ている。気づいていないふりをして何食わぬ顔でそっぽを向いたら、はく息が震えた。

 「見られない」ことで自分を守っていた彼女が、「私を見て」とささやくように。にな川の背中に足を押し付けることで、新しい世界へと飛び出した彼女のはく息がなぜ震えたのか、わざわざ言語化する必要もあるまい。

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