東浩紀氏は普通のユーザーの感覚を舐めている。普通のユーザーは、非常に高い共感能力を持っている。彼らは、どんな物語にも感情移入できてしまう。もちろんそれは、物語を楽しむには最高の方法だろうが、生産的な見方ではない。というわけで、映画をより生産的に消費するべく、「感動しないぞ!」と心に決めて観に行ったら、全然感動できませんでした。しかしおもしろかった。感動はできないが、この映画にはおもしろい点がたくさんある。さすがジブリといったところであろう。以下感想、微妙にネタバレあります。

 東の言う共感できなさの原因は、堀越二郎のあまりの人間らしさ、いや、人間らしすぎて逆に共感できないその反物語的な振舞いにある。映像に現れる彼の視線を考えればわかるが、二郎は単なる美女好きである。彼は、幼女であった菜穂子にはまったく興味を示さず美人お手伝いさんの方を想っていた(健全!)。彼は、職場についたときキョロキョロと女性社員(だろうか?)のことばかり見ている。カプローニの登場する夢の世界にも、美女美女美女。それでも彼は、菜穂子に「帽子をつかまえてくれた時から好きだった」と言ってのける。なんとも上手な嘘! 彼が初めて会った時から菜穂子が好きだったはずがない。彼はむしろお手伝いさんの方を想っていたし、軽井沢で彼女が結婚したことを聞いてもニコニコしていたところを見るに、その頃にはもう忘れていた(そもそも、成長した菜穂子が菜穂子であるとしばらく気付かなかった)。彼は菜穂子と軽井沢で再会してようやく、物語のメインの恋に落ちたのだ。けれど「帽子をつかまえてくれた時から〜」と言っておいた方がロマンチックであろう、という判断にのっとった発言なのである。そして彼は、黒川邸の離で同棲を初めてからも、決して菜穂子のことをいたわらない。結核患者の彼女とセックスはしてしまうし、目の前でいつまでも仕事を続け、煙草を吸ってしまう始末なのである。黒川に「愛情かエゴイズムか」と問われた時、彼の返事は曖昧であった。彼はただ、自分のために、菜穂子にいてほしかったのだ。
 菜穂子は、二郎には決して不満を見せたりしない。彼が自分を顧みずに仕事を続けていても、文句一つ言わない。そして彼女は、二郎の仕事が一段落ついた時に、彼のもとを去る。それを黒川の奥さんは「美しいところだけ見てもらいたかったのね」と解釈する。しかし、愛想をつかした、という解釈の方がよっぽど自然であると私は思うのだ。もちろん彼女が実際にどんな気持ちで二郎のもとを去ったのかはわからないが、「美しいところだけ見てもらいたかった」というのが、他人による推測に過ぎないことには注意しておかなければならないだろう。(二郎がただの美女好き、ってことに気づいていたために愛してはいるけども離れていったと考えると泣けるかも?)
 ゼロ戦が完成し、菜穂子の去った後の夢の世界で、堀越二郎は菜穂子に「生きて」と叫び、消える。二郎はそれに感謝しつつ、カプローニについていく。彼の夢は終わらないのである。ここに堀越二郎のクズさの極致がある。彼は、夢の中で菜穂子に笑顔で「生きて」と言われたことで、許された気分になっちゃうのである。菜穂子は二郎にとっては、単に背中を押してくれる、美しい、自分を決して否定しない、エロゲのヒロインみたいな存在であり、そしてそのまま死んでいってくれた便利な女に過ぎないのである。これはまた、二郎の成熟が拒否されたことをも意味する。二郎は、物語が終わってからも夢を追い続けるだろう。それは、最後の場面、戦火にさらされた町、残骸となった数多のゼロ戦を映しながら、「地獄かと思いました」と言いながら。他の明るい場面と同じ『風立ちぬ』のメインテーマがBGMとして流れていることからも想像できる。戦争を超えても、菜穂子の死を超えても、彼は成熟しないのだ。声(声優)が変わった時、彼の成長は止まったのである。

 ところで、この映画について、以下のような記述がある。

作品のテーマには、戦争の兵器である戦闘機などが好きな自分と、戦争反対を訴える自分、そんな矛盾を抱えた宮崎監督自身が投影されるという。鈴木プロデューサーは「宮崎駿は昭和16年生まれ。戦争というものを避けて通れない。なんで自分みたいな人間が出来たんだろうということを映画の中で明らかにしたいと、そう話していました」。 (「ジブリ初、高畑勲&宮崎駿監督の最新作2作同日公開 (鈴木敏夫) ニュース-ORICON STYLE-」)

 宮崎駿が投影されている。そう考えると、映画の中の堀越二郎と宮崎駿は、どこか重なって見えなくもない。
 堀越は、夢と仕事という二つの意味合いで戦闘機を作りつつ、国の行く末を否定的に見ている。いやそれさえも表面的で、むしろ現実は忘却していると言った方が正確かもしれない。カストルプによって語られた日本の状況を、二郎が気にかけている描写は一つもない。カストルプの言うとおり、彼は忘却していた。
 対して宮崎駿は、一貫して社会的テーマに向き合いつつアニメを作ってきているように見える。『風の谷のナウシカ』『もののけ姫』『天空の城ラピュタ』……彼は環境保護、自然回帰的な思想などを裏切ることなく、作品を発表し続けている。しかし、反戦のテーマだけは、彼は描くことができていない。彼のファンタジー世界にはあまりにかっこよすぎる戦争の道具が飛び交い、ヒーローは皆、剣や銃を持って戦うマッチョな存在なのである。それが、「戦争の兵器である戦闘機などが好きな自分と、戦争反対を訴える自分」という「矛盾」であろう。彼は事態としての戦争を強く拒絶しながら、虚構としての戦争、戦争の絵に惹かれてしまうのだ。

 宮崎駿はまあ左翼的人間である。そんな彼がどちらかというと右翼側の人間に称賛されがちな堀越二郎を主役に選んだのは、決して、彼を称賛するためではなく、また否定するためでもなかった。宮崎駿は、堀越二郎に自分自身を重ね、彼を映画の感動的な物語に寄り添わせることなく、リアルにありのままに描き、そして、これが自分であると、開き直っているのだ。それは成熟しきっていない幼稚な態度であると言えるかもしれないが、だからと言って手放しで非難していいものでもない。自己をさらけ出し、それでも「生きる」と表明すること。そこには「安全に痛い」自己反省(『ゼロ年代の想像力』)さえないかもしれない。そこを批判することは簡単であるし、子供心を失わない、あっぱれ! と称賛することも可能であろう。ただ、彼の態度が、多くの作家・表現者たちの自己欺瞞的・偽善的態度よりも、人間的な輝きを放っていることは確かである。

追記
ヴァレリーはフランス、訪問先・挿入歌はドイツ、カプローニはイタリアというおもしろさ。

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