マームとジプシー『cocoon』(8/6観劇)

 先に原作である今日マチ子の漫画作品について語るべきなのかもしれないが、記憶が薄れてしまう前に藤田貴大作・演出『cocoon』について、覚書、というか思考のダダ漏らし。考えることが多すぎて全然まとまりません。というか、もう批評不可能な何かなんじゃねえの(おい)。でも、本当に素晴らしい作品であったことは確かで、ちょうど宮崎駿率いるジブリ『風立ちぬ』なんかが持て囃されている頃ですが、技量的には藤田貴大率いるマームとジプシーももう国民作家のレベルに至ってるなぁと感じました。しかし、映像化をも拒む彼が大衆に広く受け入れられることはないのかもしれない、とも思い、演劇の難しさを感じましたね。また、今までは個人的な問題を主題にしてきた彼が戦争を扱った、というのは一種の転機のような気がしないでもありません(前作でもちょっと震災とか9.11とか入れてましたね。)(個人的な問題、〈少女〉というテーマは本作にも濃厚、原作よりも濃くされているようですが)。
 そのうちちゃんとした文章にできるといいなぁ。原作についてもきちんと考えてから。

 八月とは戦争の季節である、と言っても過言ではない。そもそも『cocoon』は八月十五日に千秋楽を迎えるよう予定されていたが、あまりの人気のために公演期間が延長されたという経緯がある。この時期に戦争を扱うということの意味、覚悟――これは、藤田貴大が初めて戦争という普遍的、全人類的なテーマを真正面から扱った作品である。原作として漫画『cocoon』が存在しているが、明らかに深化されている。藤田は現前性を原理とする演劇という形式によって、歴史を扱った、歴史として扱うだけで終わってしまった漫画『cocoon』(以下原作)を、2013年の池袋の地下に現前させた。「いま、ここ」と明確な意志をもって繋げてみせた。それは、冒頭で飛ばされ、落とされるラジコンのヘリコプターにも表れている。私が観劇したのは八月六日だが、沖縄で米軍ヘリコプターの墜落事故が起きたのは八月五日のことである(八月五日の公演でもヘリコプターは飛ばされたのだろうか? 近いうちにおそらく五日に観劇したであろう友人に聞いてみたい)。そして、演劇版オリジナルのキャラクター、吉田聡子の存在も、「いま、ここ」との接続を意味する。『ユリイカ 2013年8月号 特集=今日マチ子』に載せられた「cocoon 番外編 SATOKO」「SATOKO 『cocoon』を舞台化するための、第二稿」を読めばわかりやすいのであるが、彼女は2013年を生きる存在であり、『cocoon』の物語は、彼女の見た夢、空想として提示される。夢、空想。それは我々にとって『cocoon』が漫画であり、演劇であることと同じ意味を持つかもしれない。
 『cocoon』において繭とは空想、想像を意味するものである、とは多くの論者の述べるところでもある。先述の『ユリイカ』の中で原作を論じた斎藤環(「”卵”たちの想像力」)が村上春樹の「壁と卵」を援用し、「少女たちは常に「卵」だ。」と述べている。この時、「壁」とはもちろん戦争であり、それに動員する権力やシステムである。彼の議論はそこから、「壁」から逃げることにしか少女たちに勝機はない、といった方向に進むのだが、その「卵」の殻は、一種の繭であると私は安易に連想する。それはドロドロの16,17歳の若い少女を守るものであると同時に、壁にぶつかれば割れてしまうどうしようもなく脆い皮膜だ。『cocoon』の中で繭の守りきった命は、ただサンのもののみである(というものの、演劇版ではサンの生還までは描かれない。このことについては後述する)。他の少女たちは、その空想を戦争という現実、「壁」によって押しつぶされ、死ぬのである。
 しかし、村上春樹が「壁と卵」のスピーチの中で語ったように、芸術は、卵の側につく。優れた芸術は常に卵の側にある。あらゆる論理が戦争を選んでも、芸術は卵を擁護する。それは『cocoon』も同様である。現代人である我々にとっては漫画や演劇に過ぎない沖縄の戦争を、いかに我々に突きつけるか。それが演劇版『cocoon』の挑戦であったように思う。そして見事に、演劇は原作以上に我々のいる「いま、ここ」を揺さぶる。しかし、これを単純に反戦演劇と捉えるのは明らかに間違いだ、原作が単なる反戦漫画でないのと同様に。

 物語の大筋は漫画版とほぼ同じなのでここで説明することは避ける。しかし、演劇は漫画の細部をさらに研ぎ澄ましている。例えば原作では戦争が終わると戻ってくるネコが16歳で死んだことになり、同じく16歳で死ぬ少女たちの境遇と共鳴させられている。原作では「白い影法師」として描かれ続ける、サンの手当をした男にも尾野島慎太朗という名が与えられ、原作以上の物語と意味を持たされている。
 原作と比較してマームとジプシー『cocoon』には、吉田聡子という役者と同名のキャラクターが加えられている。彼女は、『cocoon』の物語を2013年と繋げる役目を果たしていると言える。彼女は視点である。あるいは、原作の読者や演劇版を観劇する者と重ねることができるかもしれない。彼女は『cocoon』の物語の主人公サン(=蚕)とともに、状況やキャラクターを説明する役目を持っている、演劇版のもう一人の主人公である。演劇の中で、死者は舞台を降りる。しかし吉田聡子は、彼女は最後まで舞台を降りることなく、舞台を見守っている(最後まで舞台上で芝居を見守るのは、聡子とサンの母親のみである。他の者は死に、最後の場面では舞台の上から芝居を見守っている。)
 『cocoon』における繭とは、=空想、想像力であることは多くの論者の述べるところである。彼女はマユに与えられたおまじないに代表される想像力に守られ、死ぬことなく、原作においては米軍の捕虜になることで生還し、戦後を生きることになる。
 しかし、演劇『cocoon』においては、物語はそこまで進行しない。演劇版のオリジナルキャラクター吉田聡子が離脱し、サンとマユが海辺へと至り、マユが撃たれて死ぬ、そこで演劇は終わる。原作にある「マユが男であることに気づく」場面と、戦後が、描かれないのである。これはなぜだろうか。
 原作では、戦争の終わった平和な現実で、サンが〈羽化〉したことが語られる。そして彼女は平和な世界を生きていく。これは、今日マチ子が原作後書きで述べているように、「無自覚な自己中心さ」によるサヴァイヴである。現実である戦争は終わり、繭の外に出たサン(蚕)は、生き延びていく。それが原作の描いた結末であった。原作は、戦争を描きながら、それに適応して生き延びるしたたかで自己中心的な少女を主題とし、また擁護しているのである(先述した斎藤環の論参考)。
 しかし演劇版では、『cocoon』の物語は、2013年を生きる聡子の夢、空想、想像として存在している。演劇の中心となる戦時中の物語は2013年の聡子の見た夢、というメタな構造になっているのだ。
 2013年の聡子の「べつに、願っていたわけでもないのに。やっぱり、朝は。やってきてしまった。」という台詞は、今を生きる若者にもある程度共感できてしまう台詞なのだが、夢の中では、極限状態の中で起きなくてはならなかった少女の台詞としても存在する。ここから、『cocoon』があくまで戦争ではなくある状況の中で生きる少女を主題としていることがわかる、とも言えるかもしれない。もちろん、『cocoon』は戦争を拒否する芸術としても十分に機能している。蛆が自らの肉を食べる音を聞く慎太朗の「想像できますか」の叫びが、今も胸に響いている。そして、繰り返されるリフレインは、まさに戦争を、人を殺す力を拒否する芸術の純化された手法と言っていい。劇中で何度も繰り返される「誰が死んでも振り返ることはできない」「死んだら過去になる。記憶になる」といった台詞。それに抗い得る唯一のものが、リフレインであり芸術である。語られることによってのみ死は現前する。何度も何度も、死が現前する――それがリフレインの機能に他ならない。

 マユが男であったことは原作においては、サンが男性と自分を隔てていた繭を破り、男とも普通に接するようになり、戦後を生きていくことになるという結末に繋がるものであった。しかし、演劇版では、戦争は終わらない(終わりが描かれない。)。戦争は、2013年を生きる聡子の夢、想像である、すなわち、2013年に存在しているからである。
 演劇版の中では男は、少女たちを振り回す(芝居において、物理的に振り回す。向かってくる女を何度も倒す。)存在であった。それは戦争=システム=「壁」の象徴であろう。また、繭は学校の比喩としても用いられていた(「わたしたちは学校に守られていた」)。そして、マユが男性的な存在である(演劇においては男であると明示されないが、「ぼく」という一人称を使う)。
 演劇版において繭は、単に少女たちを守るものではないのではないだろうか。演劇版において繭は、少女たちを覆い、守ると同時に、いつか破られなければならないものなのである。これを、成長(=喪失)と呼んでもいいだろう。そう考えると、繭はまた「母」をも意味する。劇中、サンを見守り続けている母。「お母さん」と叫びながら死んでいく者たち。その暖かな呪縛さえ、生き抜くためには破られなければならない。
 成長=喪失の中で破らなければならない繭。それは、戦中にも戦前たる今にも、普遍的な問題として横たわっている。人は繭の中で生き抜くことはできない。いつかはそれを破り、現実と戦い、そして生き抜き、あるいは死ぬ。それが、『cocoon』の少女たちである。繭を破り、破かれ、彼女たちは死んでいく。原作のように、サンは生き残るだろう。そして2013年、聡子は繭を破ろうとしている。そこで、演劇版『cocoon』の物語は終わる。戦争の中で繭を破った少女たちのように、聡子は繭を破る。それはあるいは現実に押しつぶされる結果となるかもしれない、それでも。少女たちのあまりに重たい物語は結局、個人の問題として2013年に繋がっているのだ。それはしかし、戦争という言語化不可能な悲惨の歴史の受容の仕方として、最も真摯なものであるとも言えるのではないだろうか。

(それは、その中で少女たちを殺す、戦争といった見たくない現実、男性的なものをも意味しているのではないだろうか(繭=マユが男である、戦争=男性的なものである、というところから)。それは、少女たちの抵抗しなければならない敵である。漫画が舞台になる過程で繭は、「少女たちを守るもの」から、「少女たちを覆う、そしていつか破られなければならない」ものになったのだ。
 繭は、演劇においては舞台でもあった。少女たちは死ぬことによってしか舞台を降りることができない。二人の男の役者が、走り回る少女たちを捕まえては振り回し、叩き落とす。それは、舞台=繭から出ようとするのを妨害しているようにも見える。戦争という繭は少女たちを捉え続け、やがて彼女たちを煮殺す(劇中、養蚕の方法が語られることも象徴的である)。少女たちは、繭の中にいても殺されるのだ(原作に「わたしが蚕だったら こんな世界には出てこないだろう 空想の繭のなかでゆっくりと死んでいくだろう」とある。これを深化させたものであると考えられる。))

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