マームとジプシー「てんとてんを、むすぶせん。からなる、立体。そのなかに、つまっている、いくつもの。ことなった、世界。および、ひかりについて。」
作・演出:藤田貴大 4/16〜5/1 十六夜吉田町スタジオ

 長いタイトルですね。
 僕がこのタイトルの公演を見たのは、三月三十一日の吾妻橋ダンスクロッシングと今日、四月二十八日横浜の十六夜吉田町スタジオでなのですが、内容は、おそらく吾妻橋〜のはプロトタイプのようなもので、いくつかのモチーフを除いてだいぶ違っています。タイトルというよりはテーマとして機能しているのかも。またこの十六夜吉田町スタジオでの公演にも三パターンあったようで、最初は四人だった出演者が後半の日程では六人になっていたりしていて、今日のアフタートークを聞く限りでは、場面を付け足していく感じで制作したのかな? 演出なども日程が進むにつれ変更する等あったようです。

 感想ですが、やはり評判なだけあっておもしろいです。おもしろいというか、胸に迫るものがあるように思います。

 マームとジプシーは平田オリザ、岡田利規なんかの影響を受けつつおそらくポストドラマ演劇などと呼ばれたりする演劇をずっとやってきているように思うのですが、本当にここしかできない劇だろうなと思いました。演出もそうなのですが、俳優陣、特に女優陣の引き込む力がすごい。
 マームとジプシーといえばリフレインってのはもう多くの人間の言うことですね。映画的な、コピーアンドペースト時代的な手法なわけですが、これが演劇においてなされることで、俳優の体力や調子なんかを受けて微妙に変化していくのがステキです。本公演で特に印象に残るリフレインは吉田聡子のもので、彼女は運動量が凄まじいのですが、終盤では本当に苦しげにリフレインし、運動量によるものなのか、計算されたものなのかわからなくなる。本当に感極まって嗚咽しているように感じる。あの演技は、泣ける、というのを通り越して、爽快にさえ感じられました。
 あと、公演中に俳優がビデオで撮り、リアルタイムで舞台上の小道具や俳優を壁に映し出す試み、面白かったです。映像と目の前のものってこんなに違うんだっていう。

 残念なところをあげると、物語の部分がちょっと安易すぎるなと思いました。
あくまでポストドラマ的な演劇であるのでストーリーはこうだと説明しにくいのですが、説明しますと、まず十年前の2001年と十年後の2011年、そして2013年の場面があって、繰り返され複雑に響きあう。舞台はどこかの田舎(電車のことを汽車って呼んでましたね←細かい)。2001年には三歳の少女の死があり、慎太郎の手伝った綾の家出と森の中でのキャンプ生活があり、聡子の旅立ちがある。そして 2011年には、先の長くない、入院中の、会うことの出来ない綾がいて、久しぶりに故郷に帰ってきた慎太郎がいる。背景として9.11や3.11が挿入される。
この戯曲において「てん」とは死や、記憶や、人間や、「9.11」「3.11」を指すものであると思いますが、特につまらなく感じたのは「死」について。男(変質者)に殺され森の中の河原で発見された三歳の名も無き少女の死は、綾には忘れ去られつつ「てん」として感じられ、彼女を忘れないための家出であると語られますが、少女の死は、ちょっと道具じみているように感じられました。それよりも嫌だったのが10年後、2011年の綾の病死(の暗示(「もう長くない」))で、彼女の死に関しては、単に悲劇性を増すためのものに感じられてしまいます。この期に及んで10代とか20代の女の子を、死因トップの自殺でさえ相当厳しいのに、不治の病にかからせる物語ってどうなのよって感じがしないこともありません。

 三歳の少女の死はしかし、9.11や3.11と同様のものなのかもしれない。
 この演劇には9.11、3.11が挿入されますが、もちろん舞台はどこかの田舎なので、現場ではありません。地面は揺れたと語られますが、被害にあった知り合いさえいない。それらは背景として存在しており、登場人物たちにとっては簡単に「てん」となる記憶です。記憶、についてこの演劇を観て個人的に考えたことを述べると、個々の過去は「てん」として覚えられ、それらは自在に繋がり「せん」となる。そしてそれらの集合が「立体」記憶であり、照らしたり影をつけたりするのが「ひかり」で、これは思い出す、視点、のようなものかもしれない。
 少女たちの問題意識はそこにあるように感じます。つまり、何かが「てん」として記憶されるのを、現在の自分「てん」との繋がり「せん」が失われることを恐れているように見えました。その恐怖からの逃亡が、ポジティブな方向では綾の忘れないための接近、森への「家出」であり、ネガティブな方向では聡子の断絶としての「旅立ち」なのではないかという気がします。おそらくどちらも失敗したのでしょう。なぜか。それは恐怖の真の対象を間違ってるからではないか。というのが僕の見方です。
 9.11や3.11と同じように、三歳の少女の死もまた、彼女たちにとっては背景に過ぎなかったのではないか。そして恐怖とは、それらが背景に過ぎないことへの恐怖なのではないか。しかし、自分と関係のない事件は、どうしようもなく風化する。今の自分との関わり「せん」は、ほとんど認識不可能となる。このことは、もう肯定する、受け入れるしか無い。
 彼女たち(慎太郎なども)は変に9.11や3.11のことを思い出します。しかし、実際に体験していないことが、なぜトラウマになるのでしょうか。それくらい衝撃的だったのかもしれないが、むしろ、それらが自分にとっては単なる背景であることへの違和感から、思い出すのではないか。それらの事件は確かに何度かリフレインされますが、本当に切実に繰り返されるのは、三歳の少女の死ではなく綾が家出をしたこと、友人と離れ離れになること、ケンカといった身近なエピソードたちであることが、その証拠であるように思います。それらの記憶はどこか痛切なものですが、しかし本当に大切に持ち続ける価値のあるものは、背景的な事件ではなくむしろそれらであるように思います。
 うまく言語化できていませんね。

あとはちょっと気になったことのメモ。
背景としての9.11,3.11について、アフタートークで藤田貴大は、イタリア人がどれくらいこれらを知っているのかを見てみたいというイタズラな気持ちで取り入れた、と言ってました。よくわからない()。

タグ:, . カテゴリー:感想・批評・レビュー,演劇・舞台芸術.
コメント:無し

« »