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会田誠展:天才でごめんなさい

 何にもなびかない。すべてに「いや、」と言う。あらゆるものをひっくり返す。そんな印象を受けた。
 会田誠は何でもひっくり返す。彼がひっくり返すのは、見せたい反対側があるからではない。見せたいからではなく見せるためにひっくり返す。表現したい思想があるのではない。いや、敢えて言えば、彼の作品はひっくり返すという思想の表現である。そんなことを感じた。そしてこれらが会田誠の一つの面に過ぎないことも、重々承知である。彼の作品には確かに、こうした言葉で捉えきれない彼の混沌の表出が、理性的で戦略的な表現がある。

 そもそも美術館という場所にあまり足を運ばない人間であり、また六本木ヒルズという勝ち組エリアに近づくこともない人間であって、まず森タワーの威容に驚いた。自分のような貧乏学生がこんな勝ち組的な空間にいていいのかと思いながら、独りとぼとぼと歩いた。慣れない高速エレベーターに耳の痛みを感じながらたどり着いたのが53階、森美術館である。作品が美術館の枠に収められること、地上53階の異空間に隔離されることについて、会田誠はどのように考えているのだろう、といったことは「美術手帖」2013年1月号の中で山本裕二氏も「美術館にきちんと収まっていいのか?」と、気にしている。「そもそも美術館という制度そのものとか、おおげさにいえば資本主義とか、いわゆる「現代美術」とか「アート」とか、そんな上っ面の構造自体にゲロを吐きかけるような仕事をしてきた会田誠が、この六本木の、アートの牙城で展覧会を開催するということ自体、彼にとって大きな矛盾ではないか」と彼は危惧する。

 美術館の中に収まったアートにどれほどの意味・価値・力があるのか。既に多くの「ひっくり返し」が行われているこの問題に、彼の関心はないのかもしれない。前出「美術手帖」に掲載されたインタビューの中で、会田誠は「森ビルとか六本木ヒルズのセレブ感、経済的勝ち組といったイメージをひと捻りした何かをつくってもよかったけれど、やらなかったですね。普段通りやることで、この場所とのギャップがあるくらいがいいかなというくらいです。」と語っている。展覧会の構成段階で森美術館という場所がほとんど意識されなかったことは確かだが、彼の作品は森美術館という上品な入れ物の中にきちんと収まっていて、六本木との「ギャップ」が生まれるはずもない。六本木ヒルズの中にあって会田誠展は、土地から完全に切り離された空間となっていたように思う。どこでもいい。美術館に収められていようと、街中にあろうと、彼の芸術は揺るがないのである――そう信じてみたいところだ。

 冒頭に述べた印象について。
 会田誠の思想を、松井みどりは「反近代」と見ている(「会田誠論 下降からの上昇:会田誠の「反近代」」『美術手帖』2013.1より)。反西洋近代主義、反西洋現代美術、人間中心主義やキャリア主義への風刺、合理化された社会生活の非人間性の脱構築、といった言葉を松井みどりは会田誠の作品に当てていく。なるほど。個々の論理を見ていけばあるいは反論もできるのかもしれないが、今回は控える。ここで確認しておきたいのだ、彼の作品群をあるテーマに沿って解釈することも十分に可能なのだということだ。しかし僕はやはり、会田誠の芸術は区別せずあらゆることをひっくり返す、異化するものであると言いたい。それはもちろん「近代」をひっくり返すが、彼がひっくり返し得るのはしかし、今ここにあるすべてなのではないか。彼が肯定する「いまとここ」は存在しないのではないか。人間の身体を丸ごとひっくり返したような《ピンクの部屋》の中で、僕はそんなことを考えたのである。

 作品に目を向けると、例えば「戦争画RETURNS」について。片岡真実はこのシリーズを「戦時中の戦意高揚を目的に当時の画家が描かされた「戦争画」の是非を問うものでもなく、なんらかのイデオロギーを掲げたものでもない。とはいえ、太平洋戦争当時「現人神」であった昭和天皇が1989年に崩御したことによる時代の空気の変化、あるいは「当時まで日本の文化人全般の中に色濃くあった『左偏重』に対する疑問」が初期動機としてあったことも会田は明らかにしている。」(「会田誠 天才でごめんなさい」カタログより)と説明している。「なんらかのイデオロギーを掲げたものでもない」。彼の作品はこれに尽きるのではないか。このシリーズの中で彼のひっくり返しているのは確かに文化人たちの左偏重である。しかし、それは単に左翼に対する右翼的なひっくり返しではない。単なるひっくり返しなのだ。

 大作《灰色の山》《背広人間撲滅作戦(「みんなといっしょ」シリーズより)》といった「反サラリーマン」を掲げる作品。松井みどりの「キャリア主義への風刺、合理化された社会生活の非人間性の脱構築」という見方もしっくりくるものではある。しかし、《灰色の山》はサラリーマンへの憐憫、同情を感じるものであるのに対し、《背広人間撲滅作戦》にあるのは嫌悪感であるように見え、そのように見ている限り、矛盾しているのではと感じてしまう。むしろ、この二作品根底にあるものは、「キャリア主義」や「非人間性」といったものを一要素として持つに過ぎない、サラリーマンに関する「いまとここ」なのだ。彼の作品はサラリーマンに対する憐憫を示すものでも嫌悪を示すものでもなく、ただ「いまとここ」をひっくり返したものなのだ、と僕は繰り返したい。

 シリーズ「みんなといっしょ」は、このひっくり返しの極みである。《イマジン》ではアメリカの視点で進んだ2001年9月11日以後の歴史をひっくり返し、《2011年3月13日あたりの幻視》では3.11以後日本を覆った「安全神話崩壊」という言説をひっくり返す。彼の徹底的な逆を行く精神を感じる。

 会田誠は《MONUMENT FOR NOTHING》の名のついた巨大な作品をいくつか制作している。無のための――この言葉は、彼の作品のすべてにかかってもいいのではないか、と僕は思う。彼の作品群をあるテーマに沿って解釈することも十分に可能なのだ、と先に確認した。これが批評家や研究者の仕事となる。そしてこれは、現代美術家・会田誠の仕事ではないのだ。彼はひっくり返す。それを見て、誰かが何かを見つける。「美術が扱うのは本質ではなくて表面」と会田誠は述べたという。本質を描き込む・発見するのは、美術家ではない。会田誠はその立ち位置を明確に意識している。そしてこの意識の到達したのが、《考えない人》だったのではないだろうか。と、そのような気がしてならない。

この記事では触れられなかった作品も多い。美少女や、アングラ運動との関連も確かに感じられるエログロ的なモチーフを持つ作品群である。その「宇宙的」混沌を前に、僕はまだ語るべき言葉を持っていない。少なくとも「ひっくり返し」なるテーマでは読み切れないものがそれらにはある。また、それらが強力な作品であり、論理を超えて、感動させるものであったのは確かだ。

引用文献:
美術手帖 2013年 01月号 [雑誌]
会田誠作品集 天才でごめんなさい

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