うーん。横書きでしか読めないでしょうねこれ。

四百万年前の革命的な猿の話
  
 昔々、四百万年ほど昔、ある猿が革命を起こした。……四百万年というのはあくまで象徴的な数字だ、君が理系だった場合そういうところを細かく指摘してきそうだから、先に言っておく。これは文系的な話なんだ。
 四百万年前の革命的な猿は、何しろ賢かった。だから彼はある革命を起こすに至った。すなわち、必要なものだけを認識することにしたんだ。例えば、空、地面、おおきな木、小さな木、おいしいバナナにまずいバナナ、オスとメス。そんなものだろう、サルに必要な言葉は。輝かしい人類史の一ページ、言葉の発明だ。
 言語の成立は四百万年前よりももっと後のことだと思うけど?
 彼女は僕の額から脳を見透かすような視線を僕に向けている。僕は彼女の瞳をまっすぐ見つめていた視線を逸らす。金曜の夜の高田馬場、駅近くのバーの端の小さなテーブルを挟んだ二人席。店内は学生のグループが多く、賑わっている。僕はビールを少し飲み込み、苦々しく思いながらも何とか話を続けようと試みる。今度は彼女の瞳は見ない。
 そうかもしれない。だから、四百万年は誇張表現であり比喩なんだ。……いや、そこまで誇張表現であり比喩であることに拘らなくてもいい。確かに言語の成立は正確には二百万年前の出来事だったかもしれない、それについては僕は知らないけど、だからこそその猿は革命的だったんだ。革命が成し遂げられるには二百万年かかったということ。象徴的な意味でね。
 最初の言語はコミュニケーションの中で生まれたようにも思うのだけど、どうなの?
 そういう可能性もある。それはわからない。ただ、これは文系的な話なんだ――君が文系の人間だとしたら、そうだな、詩のようなものと言っておこう。
 理系、と言って彼女はジントニックのグラスを傾ける。半分ほど残っていたそれを彼女は飲み干し、ウェイターに次のジントニックを注文する。僕はその一連の動作を眺め、彼女のブラウスのボタンの数やウエストの細さについて考える。胸の小ささや一重の瞼について。
 理系。何を勉強したんだい?
 都市環境工学。
 都市環境工学? 猿の話に戻ろう、と僕は決める。
 それで、猿だよ。どこまで話したかな――言語の成立云々で君が茶を濁したんだね。
 「お茶を濁す」の使い方、間違ってると思うけど。茶々を入れるとか、水を差す、じゃない?
 ごめん。すまない。日本語は少し苦手なんだ。もしかしたらこの革命的な猿よりも苦手かもしれない。革命的な猿の話だったよね。革命的な猿は言葉を手に入れた。彼はそのことで、仲間から、とても変に思われた……言葉を持たない猿が変に思うことはありえないかもしれないな。まあ、比喩的な意味での「思う」であって、より正確に言うと――まあいい。変に思ったんだ。彼、その革命的な猿は、とても視野が狭くなった。その上細かいことを気にするようになった。誰か一般的な猿がまずいバナナを食べてしかめっつらをしていると「まずいバナナ、食べる必要ない」と革命的な猿は言う。「オスには興味ない」と革命的な猿は言う。そのくせ空の色や大気の匂いの微妙な移り変わりを彼は感じられなくなった。必要ないことを言葉にしなかった彼は、必要ないことを認識できなくなったんだ。
 その話の意味は何? と彼女が言う。彼女のもとには既にジントニックが届いていて、彼女はそれを三分の一ほど飲んでいる。
 意味? 君も革命的な猿のような性質の持ち主なのかな。無駄な話には興味がない。結論にだけ興味があり、意味の抽出が最優先事項。理系的だ。しかしまだ話は終わってない。むしろ序盤、二十四時間で例えたら午前五時三十五分だ。外はまだ暗い。やることを終えた恋人たちは眠っている。だから――。
 寓意を問うてるんじゃないの。あなたがわたしにその話をする意味を問うてるのよ。
 なるほど、と僕は言う。
 ナンパだよ。君はナンパされたことない?
 ない。
 記念すべき第一号だ。
 なぜあなたはナンパをするの?
 ――根源的な問いだね。なぜ君をナンパするのかは、まあ君がなかなかかわいいから、と一言で言ってしまえる。君がなぜかわいい、つまり、魅力的なのかは僕も今真剣に考えているところだけれど――君はナンパの語源を知ってる? 彼女は首を小さく一度だけ横に振る。
 硬派の反対だよ。対義語。バンカラとか、そういう、硬派。
 猿の話よりよっぽどおもしろいね。彼女は真顔のまま、再びジントニックを飲み干す。そう、ナンパの語源の話は案外におもしろくないのだ――好きなだけ飲みなよ、と僕は言う。僕が持つから。ありがたいけど、こんなものをいくら飲んでもわたしは酔わないし、人のお金だったら食べたいものがたくさんあるし、それに何万円払ってもらったとしてもわたしはまっすぐ自分の家に帰るわよ。ふむ、と僕は言う。
 まあ、払うだけでもいい、見返りは求めない、と僕は言う。彼女はくすくすと笑った。はじめてまともに僕の言葉に対する反応を見せてくれたように感じる。国境の解放。しかしそれはこの平和協定を絶対の条件とする。僕が踏み込まないことで、彼女は門を開く。僕はしこしこ手紙を書いて、門の向こうの彼女に送る。昔々、四百万年ほど昔、ある猿が革命を起こしました……僕は苦々しい思いでビールを飲み干す。彼女がウェイターを呼び、ジントニックとビールを一杯ずつ注文する。僕はビールはあまり好きじゃない、と言おうとしてやめる。
 根源的な意味で、なぜあなたはナンパをするの?
 できることなら女性とそういう関係を持ちたい。これが我々軟派の猿の究極的な目標だ。軟派、硬派の反対ね。それと、お酒は一人で飲むよりも二人で飲んだ方が楽しい。人間の生活の半分は一人より二人の方が楽しいようにできていると思わないかい? まあ、僕は普段ナンパなんてものをしないから、本当のところよくわからない。それはある部族にとっては一種のゲームか、宗教的な儀式か何かなのかもしれない。
 考えてみるわ。
 今夜のことを? ――人間の生活の半分のことを。彼女の視線の何センチか先には僕の胸の中心があり心臓があったが、彼女はそんなところよりもずっと遠く重要などこかを見つめているようだった。その瞳はどこまでも深淵であった。言葉では言い表せない何かがそこにあった。あるいはそれが、僕が彼女に声をかけた理由であり、僕に四百万年前の革命的な猿の物語を語らせた理由なのだろう。彼女はその瞳で何を見出し、何を言葉にしているのだろう? これが発端だったのだ。
 ウェイターがグラスを二つ持ってくる。彼女は僕の見る限りでも三杯目のジントニックを手に持ち、乾杯、と小さな声で言って、テーブルに置かれたままのビールのグラスに、チン、と当てる。彼女は僕の目を見て微笑んでいる。
 乾杯って、どういう字を書くか知ってる? ――知ってるよ。僕はグラスを持ち、一度躊躇してから、口をつけ、そのまま離さず、後悔するぞ、ここはそういうお店じゃないだろう、と思いながら飲み、飲み干す。
 実を言うと僕は酒に弱いんだ、と僕は言う。特にビールがダメだ。まだ酔いは回ってきていないが、その予兆のようなものが確かに胃の中にあった。彼女は口を抑えてひとしきり笑ったあとで、水でも飲むかのようにジントニックを飲み干してみせる。次は何を飲みたい? と彼女は言う。漫画喫茶に連れてくくらいのことはしてくれよ、と僕は言い、彼女の差し出すメニューを受け取る。君ももっといいものを飲みなよ、と僕は言う。彼女がウェイターを呼び、二人分の注文をする。
 都市環境工学というのは、具体的にどんなことを学ぶんだ? と僕は彼女に尋ねる。
 革命的な猿はどうなったの? と彼女は僕に尋ねる。

カテゴリー:創作.
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