1 フェミニストSFについて
 文学とジェンダー/セクシュアリティの関わりを考える上で、フェミニストSFという小さな、しかし数多くの問題作を抱えた一つのジャンルを無視することはできないだろう。そもそも文学とは、文学批評家テリー・イーグルトンによれば、《異化》という概念によって規定されるものであり、従来の固定化された、当たり前と思われていた認識を、見慣れぬものにするという性質を持ったものである。殊に文学の中でもSFというジャンルは、SF批評家ダルコ・スーヴィンによって「異化と認識の共存と相互作用を必要かつ十分条件とする文学ジャンル」とさえ定義されており、この《異化》とは切っても切り離せないものであって、ゆえに、従来の社会通念に対する闘争の形を取りやすいフェミニズムとの親和性も非常に高いのだ。フェミニズム思想を根底にして書かれた、フェミニストSFと呼ばれる一群が登場するのも当然と言えるだろう。
 社会における女性の役割、ジェンダーを扱ったSFの歴史は古く、フェミニズム運動の最初期である1812年には既に、メアリー・シェリーの『フランケンシュタイン』が書かれた。この小説がフェミニズムの思想を基に書かれたかは諸説あるように思うが、後のフェミニズム的な読みによって、そのフェミニストSF的な側面が明らかにされたのは確かである。
 しかし、SFがフェミニズムの武器として、その実験の場として本格的に機能するようになったのは、60年代のSFにおけるいわゆるニューウェーブ運動(反体制)以後である。SFのニューウェーブ運動を、大野万紀は以下のように説明する。

SFのニューウェーブ運動とは、六〇年代後半に世界的に広がっていた反体制運動の高揚感を、SF界という狭い世界の中で再現したものと見ることができる。(中略)運動そのものは七〇年代に入って急速に沈静化していったが、SFを縛っていた様々な制約(それは主に子供向け読み物と思われていたころから残っていたものだった――例えば性的な描写をしないなど)を打破し、SF界に自由と活気をもたらしたのである。(『週刊朝日百科「世界の文学48 SFと変流文学」』(朝日新聞社)2000年6月18日)

 小谷真理によれば、この運動以来、「SF=科学小説がSF=思弁小説としてのフロンティアをも開拓」し、また第二次フェミニズムの理論的勃興とSFの発展にはパラレルな関係にあることが、マーリーン・S・バーによって例証されている。

2 『闇の左手』
 さて、このSFのニューウェーブ運動に対する一つの解答を示したとされるのが、1969年、アーシュラ・K・ル・グィンによって書かれた『闇の左手』である。ハヤカワ文庫版に収められた山岸真の解説によれば、ル・グィン自身はニューウェーブ運動に参加してはいなかったが、この作品は、SFにおいてタブーであった性(ジェンダー/セクシュアリティ)の問題を真っ向から取り上げ、ニューウェーブ運動の課題を達成してしまった。そして、この作品以降、フェミニストSFは隆盛することとなる。
 惑星ゲセンの住人は、太古の文明人による遺伝子実験の結果、両性具有である。『闇の左手』において行われたフェミニズム的な実験は、こういうものである。彼らはケメル期と呼ばれる発情期にのみ性欲は生じ、パートナーの発見後、どちらかが男性となりどちらかが女性となる。これらの条件をもとに、文化人類学的な手法を用いながら想像(創造)」された重厚な世界に、我々読者は、主人公の黒人男性アイと共に投げ出されるのである。
 物語の冒頭、ゲセンに来て二年目のアイは「いまだに私は、ここの住人を、彼らの目を通してみることができない。(中略)ゲセン人をまず無意識に男として見、それから女として見、しかるのちに、彼らの特質からいえばまったく不当な、私にとってはきわめて本質的な男女いずれかの範疇に押しこむという形をとってしまう。」と語る。しかし、ゲセン人であるエストラーベンとの旅で男でも女でもない「彼」との性的なものを超えた愛を感じ、その旅の後には、ゲセンに降り立った自分と同じ人類である仲間たちを見て、「私は彼らをよく知っているのに、私の目には男も女も、彼らがとても奇妙に見えた。彼らの声も奇妙に響いた。低すぎる声、高すぎる声。珍妙な大きな動物の群れ、二つの異なる種族の群れ、知的な眼をした類人猿、どれもさかりがついてケメル状態の……」と語るのである。このアイの至った認識に、この物語を読んできた読者は少なからず共感することができるだろう。『闇の左手』は、両性具有の人類の住む惑星という実験的な空間を作り出すことで、我々のジェンダー/セクシュアリティに対する認識を異化するのである。

3 『マージナル』
 『闇の左手』はまた、日本を中心に広がりを見せる、いわゆる「やおい」文化に通ずるものであると小谷真理は述べる。『闇の左手』以後隆盛したというフェミニストSFとして、日本の作品で知名度のある・優れた作品は多くないと私は見ているが、この「やおい」文化との関連も考えると、少女漫画家である萩尾望都の漫画作品『マージナル』が、『闇の左手』の影響下でフェミニズム的な実験を成し遂げた作品として思い浮かぶ。
 『マージナル』で描かれたのは、男性しか生まれず、生殖能力を失った人類である。その世界では「人工子宮」の技術が確立されており、「センター」と呼ばれるただ一つの施設がその技術による子どもの誕生を管理している。
 この条件のもとで、萩尾望都は「色子」という存在を想像した。これはこの世界における大人の男性となる以前の男性であって、現実の少年のように中性的な身体を持った存在であるが、彼らは当たり前のように大人の男性の性の対象となっている。彼らは通常、「念者」と呼ばれる恋人・父親のような関係の男性に半ば所有される。「女性」を知らぬ「マージナル」の世界の住人が、それに疑問を抱くこともないのは、『闇の左手』におけるゲセン人が両性具有であることに疑問を抱かないのと同様である。こうした設定が、「やおい」文化の愛好者にも共感を生んだのだが、同時に、ある事実を異化し、暴きだしている。「色子」の設定は、言うまでもなく現実において女性が置かれている立場を少年期の男性に置き換えたものであり、その立場が女性のセクシュアリティに由来するものではなくジェンダー的なものであること、及びその強制性を明らかにしたのだ。
 この作品には、いわゆる「古いフェミニズム」的な、母性崇拝のような要素も見られるのだが、現代のフェミニズムにおいても十分に有効なSFであると言えるだろう。
 
4 終わりに
 『闇の左手』における実験も、『マージナル』における実験も、共にあるSF的な世界を設定し、ジェンダー/セクシュアリティに対する従来の固定化された、当たり前と思われていた認識を異化するものであった。ここで注意したいのは、ここで描かれた世界があくまで実験の場であり、ユートピア、目標として描かれているわけではない、という点であろう。SFに対する誤解として、「理想」的な世界を描いたもの、また「理想」にすぎない、といったものが未だに見受けられるが、優れたSFは、《異化》によってあくまで「現実」を、我々が通常気付けないまでに固定化された、変更可能な「現実」を暴きだしているのであり、「理想」か否かは問題ではない。繰り返すが、このSFというジャンルの特質はフェミニズムと非常に親和性が高い。先に日本には優れたフェミニストSFが少ない、と記した。他の先進国と比べても、日本はジェンダー格差の是正が遅れている、と言われている。それは各種統計にも表れている。こうしたことと、フェミニストSFの少なさには、相関関係があるのかもしれない。日本にも、ジェンダー/セクシュアリティに対する古めかしい認識を異化する優れた作品の登場することを切に願う。

引用・参考文献
(1)アーシュラ・K・ル・グィン 小尾芙佐訳(1978)『闇の左手』早川書房(ハヤカワ文庫)
(2)大野万紀 (2000) 「60年代ニュー・ウェーヴ」 『週刊朝日百科 世界の文学48 SFと変流文学』 朝日新聞社
(3)小谷真理(1994)『女性状無意識(テクノガイネーシス)―女性SF論序説』勁草書房
(4)ダルコ・スーヴィン 大橋洋一訳(1992)『SFの変容―ある文学ジャンルの詩学と歴史
』国文社
(5)テリー・イーグルトン 大橋洋一訳(1997)『新版 文学とは何か―現代批評理論への招待』岩波書店
(6)萩尾望都(1999)『マージナル』小学館(小学館文庫)

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