メモランダム 古橋悌二 メモランダム 古橋悌二
ダムタイプ

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 ダムタイプを結成し、「pH」「S/N」といったアートを生み出した古橋悌二は、その偉大な作品群をもって、「芸術は可能か?」「アートは有効な表現手段か?」という問いを発した。そして、「我々現代社会を生きる人間にとって冒されざるを得ない精神の病巣を治療する手段としてアートはやはり、有効な手段と成りえるのだ。」と友人への手紙の中で彼は断言してみせた。彼はその可能性を信じるに至った。そもそも彼の作品群自体が芸術が可能であることを証明するものであったのだ。しかし、芸術は今なお問われ続けているし、「95年」「9.11」そして「3.11」と、問われ直され続けている。ある芸術は問いを無視し、ある芸術は解答を先送りし、ある芸術は開き直る。そして、本当に限られた芸術だけが、真摯に、その問いと向き合っている。

 「私の目的は、芸術と実生活の間の境界を壊すことでした。」と古橋悌二は言った。彼は芸術家であると同時に活動家であった。古橋悌二の信じた可能な芸術は、美術館の中におさめられるものではなく、日常生活と隣接した場で行われる芸術であり、ライブパフォーマンスである。それらは「いま」「ここ」だからこそ有効なものなのだろう。今、日常は情報という認識可能な壁に囲まれ、見慣れぬものは見えないし、また我々は見ようともしない。美術館や劇場、文学作品といった「城」に置かれた芸術は、あくまで異空間として機能し、外に持ちだされず、社会的に機能することもない。こうした、すべて認識可能な日常空間と、見慣れぬものの置かれた異空間との分断が、芸術の不可能性であり、その壁に風穴をあけるのが、可能な芸術なのである。
 「エイズは最後のカウンター・カルチャーなのだ。」と古橋悌二は言った。私見ではエイズは、彼の危惧したとおり、彼の第一のアイデンティティとして認知されがちで、またそうした見方がなされる限り、エイズは彼の限界にしかなりえない。しかし、彼にとってはエイズは「性のモラリティーという現代日本におけるもっとも醜い美学」に対する「カウンター・カルチャー」としての価値は持つものの、あくまでアイデンティティの一つに過ぎないものであった。昨今、エイズはそのカウンター・カルチャー性を失いつつあるように思う。つい最近、「エイズは治る病気になりつつある」という言説が広がった。人間を精神的に進化させる、認識をシフトチェンジさせるものであると彼の信じたエイズもまた、医療的な問題へと回収され、日常へと組み込まれようとしている。我々日本人は結局、「最後のカウンター・カルチャー」であるエイズに真に向き合うことをしなかった。世界的には減少している新規感染者であるが、日本では増え続けているという現状は、まさにその証明である。日本の強固な日常は、「最後のカウンター・カルチャー」エイズをも情報の壁の向こうへと隔離してみせた。おそらく我々はこのまま、カウンター・カルチャーの終焉をむかえる。我々に壁のむこうを見せてくれるのはもう、エイズではない。エイズは既に壁を打ち壊す力を失いつつある。これからやってくる個々の可能な芸術のあける風穴だけが、我々に壁のむこうを見せ、また至らせ得るのだ。

 さて、加えて書くと、本当に死んでいる・不可能性に満ちた芸術は狭義の文学である。そもそも言葉というものはリアルの感覚から認識へと至らせるものであった。リアルにあふれた時代や世界ではあるいはそれは有効であったかもしれないが、過剰に情報化された時代や世界では、文学もまたすぐさま情報へと貶められてしまう。世にはびこる文学の多くは、現実と感覚を結びつけるものではなく、情報でしかない。多くの文学はもはや異化の力を失い、むしろ、あらゆる現実を認識させるものとなっている。この時代、この場所で少なくとも従来の一般的な文学は、不可能である。このことを認識しない文学は、お遊びとしての価値しか持ち得ない。この認識を持ちながらも無視し、解答を先送りし、開き直って創作を続けることも可能ではある。しかし、それはお遊びであって、そうしたものを芸術とは、表現とは、呼びたくない。

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