神の子どもたちはみな踊る (新潮文庫) 神の子どもたちはみな踊る
村上 春樹

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サークルで「かえるくん、東京を救う」を読んだついでに全部読みました。村上春樹作品を読んで簡単に思いつくようなことはすべて既に語られてしまっていると思うのですが、それぞれの短編について簡単に感想とか思いついたことをすごく適当に書いてみます。
全体としては、基本的にすべての作品が95年の震災のあとで、「中身のない」人々が、何らかのかたちで「中身」を得る物語になっている、と読みました。一般的な読み方なのだと思うのですが、それについても書こうかなと思います。

「UFOが釧路に降りる」
自分の「中身」をそっくり女に渡してしまった、ということに主人公小村はある種のリアリティを感じてしまう、というオチ。最後の台詞は「でも、まだ始まったばかりなのよ」。自身の空虚さを感じつつも、どうしようと思うこともなかった小村だったのだが、「中身は箱の中にある」という抽象的な話を聞くことで、「中身」というものが存在しうるもので、喪われたものである、という実感がわいた、ということなのだろうか? すべてが「中身」を得る物語、と最初に述べたが、この短編に限っては、「中身」を得る物語は「まだ始まったばかり」である。

「アイロンのある風景」
高校一年の日、順子のジャック・ロンドンの『たき火』を読んでの独創的で美しい感想が教師に笑いものにされるという悲しい事件が描かれる。この感想が「からっぽ」の少女の抱けるものとは決して思えないのだが、順子は自らを「からっぽ」と言う。むしろ順子に足りなかったのは、「中身」ではなく「中身」に対するまなざし、自身を受け入れてくれる、「ほんとうの家族」に象徴されるようなものだったのだろう。彼女はたき火にそうしたものを見出しているが、これは三宅という男の暗喩でもある。最初に「中身」を得る物語と言っちゃったから無理やり結びつけると(本末顛倒)、三宅というまなざしを得たことが、自身の「中身」の再発見へと繋がっていくということなんじゃないのかなぁ。

「神の子どもたちはみな踊る」
「アイロンのある風景」同様「父(家族)」が問題となっている。よくよく考えると「父」は他の春樹作品、長編なんかでもテーマになってますね。文学普遍のテーマであるとも言えるかもしれません。
この短編は、善也が「父」、「自分が今ここにあることの繋がりのようなもの」を見失うことで逆に、「静かに晴れ渡ったひとつの時間とひとつの場所にたたずんでいた」という境地に至ります。それまでは『お方』という父に、次には生物学的な耳の欠けた父に規定されていた善也が、象徴的「父殺し」を成し遂げた(これを無理やり「中身」の獲得と呼ぶ!)、というのは安直すぎる読みですかね。「父殺し」といえば、実にオイディプス神話っぽい短編ですね。

「タイランド」
「言葉は石になる」。語った瞬間嘘になる。ラカンっぽいですね(僕はラカンをとても適当に用います)。
人間誰しも石を抱えてしまうのでしょうね。それを蛇に飲み込ませることが、死にむかう準備ですよという話。前に向かって生きるとは死に向かって生きる事。過去に縛られていては今を生きられない=死ぬ準備ができないということなのですね(安直!)。「中身」云々は言葉にできません。感じてください。

「かえるくん、東京を救う」
難解。サークルで精密な読解を聴くことができ、やっと理解できました。片桐はかえるくんの見方たりえるが、みみずくん側の人間=中身のない、しかし日々憎しみをたくわえるような人間であった。そしてかえるくんもまた、みみずくん的なものを抱え込んでいる。片桐はかえるくんと出会うことで「想像」すること、すなわち「中身」を得た、というのがサークルでの読みを含めた僕の読みです。
しかし、かえるくんは「もう帰ってはこない」とありますね。しかしこれがかえるくん的なものの消失を言うものではないと僕は思います。かえるくん的なものを今度は、みみずくん的な片桐のような人間が抱えるのです。

「蜂蜜パイ」
とても美しい。セックスの場面が最高ですね。
ただ、問題は最後です。淳平は結婚を決意する。二人の女を護ろうと決意する。なんか前時代的ではないですか。「中身」を得た結果としての主体的な決断なのかもしれませんが、すこし疑問が残ります。
あと、「箱」とは何なのでしょう? この短編集で考えると「UFOが釧路に降りる」の「中身」の入った箱を思いつきます。すると、二人の女とは淳平にとっては「中身」である、あるいは「中身」の象徴するものであり、もう手放したりはしない、ということなのでしょうか。
これだけ、道徳的なことをはっきり言い切る作品ですよね。主人公が小説家であるというのも少し気になります。あるいは、春樹自身の一種の決意表明なのかもしれませんね。

再び短編集全体についてコメントすると、最後に眠るシーンで終わる短編ばかりというのもおもしろいですね(「神の子どもたちはみな踊る」以外)。後。この短編集の問題意識というのは3.11以後の今でも非常に有効であると思います。というのは一年ほど前にも言われたことかもしれませんね。
なぜ震災後と「中身」を得ることが結びつくのか、という疑問は抱いたのですが回収できませんでした。それぞれの作品の中での震災を考えるとまた何か出てくるのかもしれません。それぞれの作品と震災といえば、みんな実際に地震の被害を受けたわけではないというのはおもしろいですよね。
ちなみに僕は「アイロンのある風景」「神の子どもたちはみな踊る」「蜂蜜パイ」が特に好きでした。

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