終わりなき日常を生きろ―オウム完全克服マニュアル (ちくま文庫) 終わりなき日常を生きろ―オウム完全克服マニュアル
宮台 真司

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だいぶ古い本となってしまった『終わりなき日常を生きろ』であるが、「終わりなき日常」云々は未だに語られていて、読んでおかなければなあと思ったので、今更感想を。

二つの終末感があった、と本書は言う。すなわち「男の子的なもの」と「女の子的なもの」(ここらへんの用語なんか気持ち悪いよね!)、「核戦争後の共同性」と「終わりなき日常」である。前者がサリン事件を引き起こしたのだ、だからブルセラ少女のように「終わりなき日常」を生きろ、というのが本書の結論である。

本書の「終わりなき日常をまったり生きること」礼賛は、「核戦争後の共同性」という終末感の「敗北」、「終わりなき日常」を生きる少女たちが「キツくない」と言うところに由来する。上手い生き方だ、ということである。

売春「一般」は悪ではない、という本書の主張は納得できるものである。しかし、みんなが売春を悪と感じずに「まったり」生きることがすばらしい、というのはわからない。「核戦争後の共同性」というものがありえないもので、「終わりなき日常」という終末に吸収されているのは確かであるが、その中での生き方は、本書の言う「まったり」だけでなくても良いように思うのだ。

例えばわたしは恥ずかしながら、「終わりなき日常」の中で、常に「非日常」を求めている。僕の求める「非日常」とは何か。それは、地震でもテロでも核戦争でもない。新たな人間関係、恋愛、成功、失敗、新たな旅立ち。過去を断ち切れること。将来が見えぬこと。そうした流動性である。「核戦争」を求めた人々は、本当に核戦争を求めたのだろうか。違うように思う。彼ら(僕ら)が求めたのは日常の変更である。しかし現代で、日常を維持しているものは、「大きな物語の終焉」なんて言葉が示すように、とても見えにくい。

こうした流動性を拒否し、日常を終わりなきものにしているのは、なにか。日常とは変更可能なものである。日常を維持する「なにか」は確かに存在しているが、それは歴史的なものであり、解体可能なものである。本書は「なにか」には勝てないよ、諦めて「まったり」生きよう、と言っているのかもしれないが、それはそうしたい人間がそうすればいいだけだ。わたしには「まったり生きる」ことは、「死」に見える。

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