ヘヴン (講談社文庫) ヘヴン (講談社文庫)
川上 未映子

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最初、いじめを描いた作品、という情報を持っていたために、いじめを主題とした小説として読んでしまった。しかし『ヘヴン』は、ただのいじめを描いた社会派の小説ではないのだろう。そういう視線で読めば、実につまらない小説になる。いじめられる二人の思想や行為は対処療法的でしかも危険なものである。まだ「逃げる」パラダイムの方がマシなように思えるし、何にせよシステムの改変が求められることに変わりはない。システムが変わらないなら対処療法しかない、という考え方もできる。――こういうところで終わってしまう。

まず、主人公とコジマの二人はもちろん「正しく」ない。百瀬の言葉に「正義」はない。そしてこの小説は決して正しさを提示するようなものでもない。むしろ、すべてが状況に対する言い訳であって、間違っているような印象を与えるものでる。「言い訳」――この言葉をテーマにこの小説を読むのは面白い。すべてが言い訳がましいことに気づくはずである。

いじめを「受け入れる」少女コジマは、主人公に「きみのしてることは正しいって言っているのよ」と言う。これは主人公に対する肯定に見えて(主人公も肯定であると考えたであろう)、そうではない。コジマによる彼女自身の状況、いじめを受け続けざるを得ない状況の正当化である。だから主人公の斜視の手術の話を聞いた時、「仲間だと、思ってた」「でも、違ったんだよ」と言ってしまう。斜視の手術を、状況からの逃亡、彼女自身からの逃亡とみるのである。

百瀬は主人公に問い詰められ、「たまたまでてきた欲求が、たまたまうまくいく場合があるの。君が置かれてる状況っていうのは、そういうたまたまが一致した単なるけっかなんだと思うよ」「いいとか悪いの話になるの、これ? そういう話をしているんじゃなくて、僕は状況を説明してるだけなんだけど」「さあ、どうだろうね」「僕は君に納得してくれなんて言ってないじゃないか」「みんなが決定的に違う世界に生きてるんだよ」と、はぐらかす。はぐらかす、と書いたが、語り手には彼はあくまで理性的であるように見えている。納得してしまいそうになるのだ。しかし、百瀬の言葉は、なるほどそうだねと丸呑みしてしまっていいものでは決してない。

コジマと百瀬は大雑把に言って対照的な人物であるが、しかし根底には共通する部分がある。それは、両者とも自分の現状に言い訳をしている点である。すなわち、コジマは自分がいじめを受け入れざるを得ない状況を正当化するために、斜視や自分の身の汚さを原因として見る。百瀬は、いじめに理由なんかない、偶然のけっか、いい悪いの話ではないと語り、いじめている自分を正当化しようとする。だからであろう、コジマの全裸になるクライマックスの場面、主人公の思考の中でコジマと百瀬は重なりあう。

主人公はラストシーン、斜視の手術によって、象徴的にもまた「世界の奥ゆき」を得ていると言えるだろう。これは、コジマと百瀬の「世界」のオーバーラップした末の、「奥ゆき」である。僕の力量ではこのラストを「言い訳」とうまく結び付けられないが()、しかし僕の言う「言い訳」は、百瀬の言う「決定的に違った世界」にあるいは等しいのかもしれない。ただ、主人公が「決定的に違った世界」の重なりを「美しい」と言ったことだけは確かである。

また少し逸れるが、「奥ゆき」を手に入れる前、主人公は「自殺しても何も変わらないんじゃないか」「どこに行ってもこの状況が続くんじゃないか」といったことを思考する。こうした思考は、ラストシーンで語られる「これまで数えきれないくらいくぐり抜けてきたこの並木道」に象徴されているように思う。彼は、そこからも脱出したのである。

「ヘヴン」について。コジマの「ヘヴン」が絵画、「奥ゆき」のないものであったのもおもしろい。主人公の至った世界が真にタイトルの示す「ヘヴン」であるなら、やはり決定的に違った世界の重なりあいを理解した末に辿り着ける境地であるということなのだろう。

この物語は、いじめをテーマとして設定し読む限りはおもしろいものではない。気づくのが遅かったなあと思いました。ほんとはなかなかおもしろい小説でした。

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