4846001296 絶滅以後―閉じられてゆくステージで
高橋 敏夫
論創社 1997-05

「批評とはなにか。」
いまとここを嫌悪の主体による。
いまとここを保守する者に批評はありえない。
いまとここは変更可能である。
にもかかわらず、単一性と固定制を人々に強要する支配的な思想と装置が存在している。
単一性と固定制を強要する思想を「敵」として認識し、揺るがしつづけること。
いまとここを嫌悪する主体は、敵に対する闘争と主体に対する闘争を持続しなければならない。
「このふたつの闘争を言葉によって遂行する実践を、ここでは「批評」とよんでおこう。」

評論の欄外にちょこっと載っている「批評とはなにか」が非常におもしろかった。これを読んでようやく高橋敏夫の批評活動の根底にあるものがすっきりと理解できたように思う。批評、軽い気持ちでやっていいものじゃない、いや、軽い気持ちで行われる批評もあっていいのかもしれないが、こういう意志を貫いて批評をやってる人にはどうしても及ばないんだろうなって思った。批評を志す人間にはぜひ読んでほしい。
評論自体は、沖縄、大震災、戦争、ゴジラ、学校現場における「怪物」のゆくえ、オウム真理教、血液型占いなど、微妙に古い感じもあるにはあるのだが、もちろん現在に通じるものも数多くありやはりおもしろかった。しかし九〇年代の「いまとここ」に対する言説が現在でも通用するというのは悲しいことかもしれませんね。血液型占いとか、全盛期ほどではないかもしれませんが、まだまだはびこってますからね。
個人的には彼のポストモダン状況の解釈の仕方は興味深いなと思った。大きな物語の終焉、というのはポストモダン状況に対する共通認識であろうが、彼は、90年代にもまた、モダンの大きな物語とは性質を異にした大きな物語が存在していると言う。

これら、九〇年代の「大きな物語」は、ポストモダン環境が退去をせまったモダンの「大きな物語」と同一ではない。モダンの「大きな物語」が退場したあとあらわれた、これら九〇年代の「大きな物語は」、むしろ未知の主題群と考えたほうがよい。未知の戦争、未知の国家、未知の天皇制、未知の資本主義、そして、未知の闘争および闘争主体。
なかでもとりわけ「戦争」は、すでに七〇年代の半ばからずっとそれへの視線および思考を解体させてきたがゆえに、われわれにとって、もっとも未知化した対象であり、主題といってよいだろう。

この視線、思考の解体された結果としてなされる「未知化」というのもおもしろい。初めて見た言葉だけれど、誰が使い始めたんだろう。
他にも興味深い評論が多くあったのだけど、もし既に古い問題になっていたら恥ずかしいのであまり書かない。けれど個人的には、2012年現在に至ってもこれらの文章の書かれた当時の状況とそう変化していないように感じられる。高橋敏夫は徹底的に保守嫌いな批評家なので人によって好みが分かれると思うけど、日本の右傾化がいわれる昨今に彼の評論を再読するのもまた意味のあることのように思いました。

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