403330410X さっちゃんのまほうのて (日本の絵本)
たばた せいいち
偕成社 1985-10-01

たばたせいいち、先天性四肢障害児父母の会、のべあきこ、しざわさよこによって共同製作された絵本「さっちゃんのまほうのて」 (以下本作) を異化の概念を軸に分析し、それを前提に本作の主題について考察する。

分析
 まず本作の物語の進行の仕方に異化は仕組まれている。さっちゃんは生まれつき右手の指の欠損した少女であるが、最初のページからしばらくは、読者がその欠損に気づくことはないであろう。6ページでさっちゃんの友人によって発せられる「てのないおかあさんなんて/へんだもん。」という言葉まで、さっちゃんは健常者の少女のごとく振る舞うのだ。障害者である少女を健常者と同じように描いてみせたのは、障害を明視させる異化である。
次に、一つ一つのシーン、描写や文に注目する。
 まずおままごとであるが、これは家庭、ひいては世間・社会を異化したものであろう。殊に本作のおままごとは、「障害のあるものは母親失格」といった、世間の大人の持つような考えが表出する場として機能している。おままごとの中でこうしたステレオタイプな発言がなされるとき、びくりとするのは大人たちであろう。
 また、10ページも重要である。10ページには「あなたのてには、ゆびが いくつ/ありますか。」と書かれている。そして右側に描かれているのは、「あなた」の右手、健常者の右手だ。このページには、読者の右手を明視させる働きがある。
 12ページのさっちゃんは痛ましい。おままごとの場面までは障害を気にする様子のなかったさっちゃんが、「障害者は母親になれない」というレッテルを貼られることで、「こんなて、いやだ。」と泣くのである。
 そして13ページである。鏡に映しだされた少女の裸体は極めて印象的だ。そもそも鏡とは、自己の身体を客観的に見るのに最適なものである。日常においては鏡は単に「顔に汚れはついてないか」「ネクタイは曲がってないか」といったものをチェックする程度の、ルーチン化された機能しか持たないが、しかし鏡の前に立って、ふと、「顔がつかれている」「白髪が増えた」といったことに気づくことがある。これはまさしく自身の異化された瞬間であると思うのだが、本作においても、「ふと かがみに うつっている じぶんに きがつきました。/ゆびのない ちいさな まるいて。かがみのなかの ては、/まるで はじめてみる しらないひとの てのようでした。」とあるように、鏡はさっちゃんの身体をさっちゃんに明視させた。わたしも鏡を見てみよう――読者を不安にさせ、そのように思わせる力が、このページにはあるように思う。さっちゃんの全身を鏡をとおして描写することで、読者に自身の身体との比較を促すのだ。
 17ページから19ページには、幼い恋愛が描かれている。これは「障害者は母親になれない」に対するものとしての描写であるかもしれないが、19ページの「ふとんのなかで、さっきから さっちゃんは、ひるまの あきらくんのかおを/おもいだして、なんだか ふうーっと おかしくなてしまいます。」という表現などは、恋愛を異化したものとして、美しいものであると私は思う。

考察
対象となる読者
 まず、10ページにある「てには、/いつつのゆびが あります。」から、本作が健常者を対象としたものであることがわかる。マイノリティである障害者の側からマジョリティである健常者たちに向けられたものなのである。
また、本作の舞台は幼稚園であり、主人公であるさっちゃんが幼児として設定されていることから、本作は幼い子どもに対して最も有効に異化の力を行使するものであると考えられる。大人たちにすれば幼稚園はファンタジーのごとく遠い世界であるが、子どもたちにすれば、自らの世界・日常のコンテクストから僅かに外された物語として映るのである。
しかしまた同時に、大人の読者に対しても本作は作用する。本作に描かれている子どもたちの世界は、そのまま大人たちの世界を反映したもの・異化したものなのである。

本作の異化の目的・効果
 先に分析した本作における異化は、どのような目的によって仕組まれたものなのか、あるいはどのような効果をもたらすのか、考察する。
 まず本作の目的であるが、製作の経緯なども鑑みるに、「劣った障害者/優れた健常者という二項対立の超克」がそれであると考えていいだろう。すなわち「障害者は健常者よりも劣っている」「障害者はかわいそうな存在である」といったステレオタイプの払拭である。
 本作において障害者であるさっちゃんは、「右手に指がないだけの健常者」のように描かれているといってもいいのではないだろうか。彼女は最初は右手の指の欠損を気にしているように描写されないし、また彼女の、母親への憧れやあきらくんへの恋愛感情は、彼女が普通の少女と同じようにものを思う存在であることを強調するものである。こういった障害者も健常者も同じ人間であるという言説について、津田英二の論文から引用する。

「障害者」も「健常者」も「同じ人間」だという言説は、「同じ人間といっても違いはある」という観念と共存しえるわけで、「障害者」と「健常者」を二元化する認識枠組みに対して何の変更も迫らない。むしろ「障害者」の多様性、「健常者」の多様性を顕在化させていくことによって、「障害者」「健常者」という二分法は多様な尺度のひとつとして相対化される。
 「障害個性論」と呼ばれる考え方は、このような理念と同じ方向性をもちえる。「障害は個性である」と観念することによって、「障害/健常」という二元論の枠組みを相対化しようすることができる。
(津田英二「「障害文化」概念の意義と課題~共生の社会教育のための理論構築に向けて~」)

 また先に鏡の場面を分析したが、健常者である読者に自己の身体を明視させることは、さっちゃんの身体と比較させることにも繋がるが、同時に読者のまわりの他者との比較をも促す。そのように考えると、本作は、先に引用した論文に述べられている「障害個性論」のような思想が根底にあるのではないかと推定できる。この推定の根拠として、本作の成立が1985年であるために少々弱いのではあるが、1999年の「先天牲四肢障害児父母の会99年宣言」の文面を引用する。

そもそも「障害」と人間の幸・不幸とは、別問題のはずです。「障害」の有る無しにかかわらず私たちは、一日の中でも、一生でも、幸せな時もあり、不幸な時もあります。しかし、何故か「障害」と「不幸」が一体となって、「障害児」とその家庭は必ず暗く不幸な生活をしているかのような予断と侮見があるのではないでしょうか。

少なくともこの文面からは、健常者も障害者も同様に幸不幸を感じる人間であるという「障害個性論」的なものを読み取ることができるのではないだろうか。

障害に関する議論
なぜ従来の、障害者はかわいそうな存在であるとみなし、健常者は彼らを哀れみ助けてやらなければならない、といったパラダイムは、否定されなければならなかったのだろうか。それを考えるとき、このパラダイムが歴史の中で犯してきた罪、すなわちナチスドイツに代表される隔離・虐殺、優生学を根拠とする断種といったものを、我々は思い出さなければならないであろう。

従来の障害者福祉制度の基本にある「リハビリテーション・パラダイム」の問題点は、結局のところ、障害者を差別し排除する社会システムを肯定してしまうことにあった。「リハビリテーション・パラダイム」の目標である社会への適応とは、「健全者」をモデルにして、「健全者を中心に構築された社会」へ適応することを障害者に求めていることに他ならず、努力しても既存の社会システムに適応できない障害者を「社会人として不適格な人々」としてしか捉えることができない。障害者を、「健全者」を基準とした能力尺度で分けることを不可避とする。その結果、いままでの歴史から明らかなように、障害者に対する非人間的な対応までもが肯定される可能性をもつ。(『障害者差別の社会学』p.217)

また、こうしたパラダイムによる社会が、障害者の側にしてみれば非常に不公平なものであることも、否定の理由として挙げられる。このパラダイムの元にマイノリティである障害者の側がマジョリティである健常者の側に同化されるべく努力しても、どの程度同化すれば排除されないのかはマジョリティの側に委ねられており、「同化が不十分」であると見なされる限りマイノリティは排除される。そして現在、いくら同化の努力をしても排除されていると感じる障害者たちによって、「社会的障壁除去をめざし統合することを要求する運動」あるいは「異化の方向に進み障害を肯定する「障害の文化」を構築する運動」が行われているのが現状である。

障害個性論、「まほうのて」について
 こうした障害に関する議論を踏まえた上で、「まほうのて」及び本作の背景にあると思われる思想「障害個性論」について考える。
 「まほうのて」によるさっちゃんの右手の肯定は、一時的にしか意味を持ち得ないものであるといえる。父親から与えられただけのその価値は仮初のものでしかなく、その魔法の解けたとき、さっちゃんは再び自己の右手の意味を問わなければならない。本稿において述べてきたような社会環境がある限り、彼女の救済は極めて難しいのである。
 私は本作を「障害個性論」に立ったものとして解釈した。しかし、「障害を個性として認めるべき」という言説だけでは、「障害者=かわいそう、不幸」という認識はあるいは崩せるかもしれないが、津田英二の論文にもあるように、それのみによって劣った障害者/優れた健常者の二項対立を脱構築することはできないのである。個性であるとしたところで、他に何も変わらないのであればこの構造もまた変わることなく残存し、故に障害者を同化させ排除し得る社会環境もまた残ってしまうからだ。

まとめ
 これら「まほうのて」の背後に残る問題、本作の思想的背景であると考えられる「障害個性論」自体の抱える問題から、この作品が、認識異化の文学として、劣った障害者/優れた健常者という二項対立を社会環境のレベルから破壊し得る強い力を持ったものであるとは、私は考えない。この二項対立の完全な超克には、社会環境のレベルからの変革が不可欠であり、また本稿において紹介したような運動の成功、あるいはより有効な解決策の発見が不可欠なのである。
 しかし、このような作品による異化が、マイノリティに対し同化か排除かを迫る、また差異を差別へと結びつける、そうした権力の働きを多かれ少なかれ蝕み、やがて変革へと向かわせるものであることを、私は信じている。

引用・参考文献
・要田洋江『障害者差別の社会学―ジェンダー・家族・国家』岩波書店,1999
・石川准,倉本智明編著『障害学の主張』明石書店,2002(引用部は石川准による文章)
・津田英二「「障害文化」概念の意義と課題~共生の社会教育のための理論構築に向けて~」
http://www2.kobe-u.ac.jp/~zda/00gakubu.html(2012,7,23閲覧)
・「先天牲四肢障害児父母の会99年宣言」
http://www10.ocn.ne.jp/~fubo/Page_Msg5.htm(2012,7,23閲覧)

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