BiS(公式ウェブサイト)の「primal.」、2011年12月21日発売なのでちょっと古いのですが、最近偶然目にし、感動したので感想的なものを書きます。PVについてと、歌詞について少し。

■「primal.」PVについて。
「primal.」のPVの衝撃、その一は口腔内の映像、震えるのどちんこである。
あなたは他人ののどちんこを見たことがあるだろうか? 思い出せるのどちんこがありますか? 多くの人間は首を横に振る、と信じたい。
アイドルとは、機械装置であった。かつてダントツでかわいい道重さゆみはこのようなことを語った。「アイドルとして、ぶどうは食べない。吐き出さなきゃいけないから。きれいに食べられるものだけを食べる」と。道重さゆみは相当意識的なアイドルであるが、つまり、アイドルは生々しくあってはならないのだ。腋に毛がはえていてはいけないし、鼻の穴を覗かれても、大口を開けて食事をしてもいけない。そんな既成のアイドル像をぶん殴ったのがこののどちんこである。そして、それだけではない。あなたはおそらく他人ののどちんこを記憶していないだろう。仮に見たことがあったとしても、忘却し無かったことになっているのであろう。このYou Tubeに公式に上げられているこのPVへのコメントに、「グロくて無理」といったものがある。そしてこのグロさは、我々のすべてが内に持ち、すべての他人の口の中にぶら下がっているのだ。

次に排泄のシーンがある。
ところで我々は排泄をしない。というと奇妙に聞こえるかもしれないが、では、あなたの友人を一人思い浮かべてみてほしい。そして、彼/彼女が排泄している姿を思い出してみてほしい。
思い出せたあなたはきっと現代の価値観で言う「変態」なのだが、何が言いたいかというとつまり、私たち社会の中の人間は、家族や恋人(?)を除いた他者の前で排泄することがない。「お手洗いにいってくる」の一言で席を外すのみである。「アイドルはウンチをしない」というのは半ば冗談のように語られることであるが、しかし我々もまた、我々を見る者にしてみれば「ウンチをしない」存在なのではないだろうか。
そして、アイドルは我々以上に「ウンチをしない」はずなのである。画面の向こうの彼女たち、ステージの上の彼女たちは、「花を摘みに参ります」等とは言わないのだ(言わないよね?)。

またアイドルの異化として衝撃的なのは、PVに盛り込まれているインターネット上の掲示板に書き込まれたらしきBiSメンバーに対する言説、中傷、流出したものと見られる写真である。これらとMV全体、冒頭末尾含む所々で用いられるメンバーのホームビデオとの対比。この、汚れることの許されぬアイドルとして名も無きものの誹謗中傷にさらされる映像と、純真無垢な子ども時代、汚れていることが許されていた故の清き時代の映像との対比は、アイドルオタクの我々に「あんたの見てるアイドルって何?」と問い詰めるものだ。
彼女たちが「アイドル」となる以前の映像と、人間さえも異化する数々の衝撃的なシーンは、アイドルに対する既存の認識を破壊しうる危険なものであった。アイドルという虚構をまとった彼女たちがその身体の内側・生命の本質的な美しき汚さを見せつけることによって放ったその一撃は、意識的な者にはアイドルの再認識を促させるものになったであろうし、そうでない者には強い拒否反応を示させるものであっただろう。
そもそもアイドルは、基本的に人々を同化させる役割を持っている。アイドルはメディアによって美しい「正しい」存在とされ、人々を導く、権力の側の存在であるのだ。このアイドルをアイドル自身が内側から異化するのは、斬新なことであるに違いない。「primal.」において彼女たちは、アイドルという虚構を脱構築してみせたのである。そして、アイドルの異化をとおして人間そのものをも異化してみせているとも言えるだろう。

■「primal.」歌詞について
PVについての以上の考察を踏まえた上で、BiS自身によって作詞された歌詞にも少しふれてみたい。

この歌詞からPV程強烈な異化を見いだすことは私にはできない。しかし、彼女たちの幼少時のホームビデオとアイドルとなってからの性的な中傷と重ねて見た時、歌詞から浮かび上がるのは「生命」という極めて根元的なテーマではないだろうか。生命としての人間は、画面の中の人間のように「きれい」なものでは決してない。食事、排泄、性交といった、生命としての人間の行動を象徴するものが、MVに映し出されるおどろおどろしい粘膜なのだろう。

「透明な心を白で汚したんだ」。アイドル論として「primal.」を解釈するには抜かせない一節である。ここで気付かされることとは、アイドルに象徴される「正しさ」「清純」といった「白」のイメージを持つ言葉、概念が、決して本質的なものではなく、「透明」なものに上塗りされる「汚れ」にすぎないという事実である。アイドルとして「白」に汚された彼女たちに書き込まれるのは「プーもユケもヤリマン」「ユフは男関係すごい」といった言葉だ。それらの言葉は、根拠のない誹謗中傷であると同時に上塗りされた「白」の虚構性を露呈するものでもあるのではないだろうか。

またBiSは、思い出のすべてを消化し、「今度は何をほら食べようか?」と問う。人間として生きるということは、決してロマンチックなおとぎ話のようなものではない。「目に見えないもの見落として / ふんだりけったり / 靴ずれした両足で / ここに立ってたんだ。」「繰り返す思い出は / 忘れられない 傷残してんだ」と歌いながらも「今度は何をほら食べようか?」と問うてみせるこの歌詞は、生とは失うことであり、傷つくことであり、そしてそういった喪失を抱えてなお人間は生きて行かなければならない、そういうことを思い出させるものであろう。BiSリーダーのプー・ルイは、インタビュー(http://www.hotexpress.co.jp/interview/111214_bis/)の中でインタビュアーの「切なさと、それでも突き進むしかない感じ。今回のニューシングル『primal.』にも現れてますよね。」という言葉を、肯定する。この歌はそういうものである。PVの攻撃性とは裏腹に、歌は非常に切ないものとなっており、この切なさを胸にPVを見れば、「聴いたときに何かが思い出される曲になる」(前述のインタビューのプー・ルイの言葉)と私は思う。「primal.」のPVはそういう意味で、二重の見方のできるものであろう。攻撃的であると同時に、脆く切ないのである。

■まとめ?
「primal.」というタイトルはどのように解釈できるか。primalという単語は、「第一の、根源の、原初の、主要な、根本的な」といった意味を持つ。最も単純に解釈すれば、根源的なものとは歌詞の中で「透明」という言葉で表されており、この歌の中心にはそうした「透明」なものへの郷愁の念がある、といったものになるだろうか。

さて「primal.」は「ウンチをしない」機械装置としてのアイドル認識を混乱させるものであり、さらにはアイドルの明視を超えて人間、生命の本質的な汚さをも明視させ、その汚さ故の美しさを思い出させるものであった。 そして少なくともこの曲、このPVにおいて、BiSは同化の役割を担った装置としてのアイドルではない。彼女たちは、そうしたアイドルを異化し、さらには人間を異化してみせる孤高の芸術家、あるいはその作品そのものとして機能しているのである。アイドルを明視させ再考を促す「primal.」は、新生アイドル「研究」会の名に恥じぬ傑作であると言えるだろう。

微妙な文章ですね。BiSの中ではユフが一番かわいいと思います。

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BiS

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