気の迷いですね。最近の僕は気が迷っている。Inspired by これです、言うまでもなく。美しい詩だと思います、ほんと。

Down By The Salley Gardens

 柳の庭を山から吹き下ろす風が通り過ぎていく。夏の残り火は消えかかり、日はどこか弱々しく、空は薄い雲に覆われていて、夏の服装のままの僕らには少し肌寒い。先を歩く彼女を僕は追う。彼女の雪のように白く儚い足を見つめる。その華奢な青い小さなサンダルが湿った土をそっと踏みしめ、時々リズムを崩すのを僕はただじっと見つめている。何も考えないように。
 庭の中心で彼女は立ち止まる。僕は顔を上げる。彼女のか細い背中を見、その整った長い髪を見、思考が蘇る。思考は僕の胸を締め付ける。
 何かあったの。振り向いて彼女は訊ねる。いつもならば春の花のように爽やかに明るく輝く彼女の表情に翳りのあるのに僕は気づく。僕の影のせいであるならば、僕は、おそらく独りでいるべきだったのに、なぜ僕は。空虚な後悔が僕を襲う。僕は僕のために何もできなかった。ただ彼女に会う以外に。
 そう思います。僕は答える。あった、と言ってしまうことも、あります、と言うこともできず、笑みを浮かべることもできぬまま僕は、どんな宝石よりも美しい彼女の瞳を見ることもできず、ただ僕の歪な握り拳を見つめた。
 哀しいことかしら。恥ずかしいことかしら。
 そうかもしれません。
 私はあなたのそばにいるから。話さなくてもいいわ。
 彼女は僕の方に一歩近寄ってくる。その気配が僕の切り詰めた心を、淡く、哀しいものへと溶かしていく。毛布のようだと思う。その柔らかな暖かさの中で、尖った思いの全てが罪悪感と涙に変わるのだ。
 彼女の暖かさの全てが欲しいと僕は願った。そしてそれは罪悪であると僕は思う。僕は僕のために苦しんでいる。誰のせいでもなく、ただその罪のために。
 でもね、言えば楽になることもある。それは卑怯なことかもしれないけれど。生きるためには必要なことだと思うわ。
 ……何でもわかっているみたいですね、あなたは。
 年上というものは、わかってるふりをするものよ。
 彼女は寂しげに微笑む。つられた僕は久しぶりに笑顔になった。そして思い知る。彼女は僕よりもずっと高いところにいる人間なのだと。僕の自然であった笑顔は自嘲へと変わる。破れかぶれで僕は話す。
 好きな人ができたんです。
 あら。
 彼女は少し驚いた顔をして、僕を見つめた。
 治る病気で良かったわ。そう言って彼女は笑う。
 それは素敵で、それに哀しいことね。
 哀しいですか。
 とても哀しいことよ。
 真意を問おうとした僕を遮るように、正午の鐘がなる。戻らなくてはならないだろう、僕も彼女も。僕は何も言えなくなる。彼女は微笑む。
 気楽にね。恋は笑ってしなければ、哀しすぎると思うわ。
 僕は彼女に倣って笑顔を見せる。生まれてから今までに何度も作ってきた表情だからか、簡単に作れてしまうものだなと思った。
 あなたはまだ若いのだから。
 そうですね。それ以外に、言葉が出て来なかった。結局、胸のところで思いは詰まっていたのだ。
 それではね、と言って彼女は僕に背を向ける。そして離れていくその足取りは、僕が後を追っていた時よりもずっと軽やかで、どんな踊りよりも楽しく美しい。そしてその遥かに遠い、遠ざかっていく美しさに僕は哀しくなる。彼女の言葉を思い出して、笑おうとして、笑い方を忘れていることに気づく。彼女の全うな笑顔が無ければ。

 若く、それに、愚かで。

 名前を知らない小川の畔で、僕の隣に座る彼女の緩く結われた髪はあの日々よりも長く多くなっていて、身体はより豊かになって、彼女にぴったりだと僕は思う。強く、確かで、その優しさで僕の全てを包み込んだ彼女に。
 けれども、ふと気づくと彼女は昔と変わらぬ、人のいない花園を思わせる甘く淋しい匂いを纏っている。そして、その指は小枝のように細く繊細なままで、ただ昔の彼女の手にあった苦労を知らぬような脆い柔らかさは失われているように見える。変わったところや、変わっていないところ、そういった全てが僕を苦しめる。
 彼女は何を思っているのだろう。僕は川のささやかな流れを見つめている。そしてそこに映る僕と彼女は、影と光のようだ。
 寒くない?
 寒くないです。
 遠いところまで来てしまった、と僕は思う。何のために。なぜ今更。わからない。いや、きっと、わからないことがあまりに多くなってしまったからだろう。
 哀しいことがあったのね。
 そうでしょうか。
 聞かせて。力になれると思うわ。
 僕は皮肉な笑い方をするようになった。それで、ずっと笑っていられるのだ。何かを笑う。自分であったり、他者であったり。
 僕が、何で生きているのか、わからなくなりました。人は、何で生きているのだろう。
 そんなこと、考えるべきじゃないわ。あまりに虚しい。
 何をすべきだと思いますか、僕は。
 卑屈になっては駄目よ。素直に、力を抜いて。
 彼女は僕をじっと見つめながら言う。ずっと遠くにいた彼女が、こんなに近くにいるというのに、しかし彼女はもうずっと遠く離れた場所にいるのだ。泣きそうになって、僕は笑う。僕はなぜこうも、空虚なことばかり口にしてしまうのだろう。
 あなたは特別な人でした。
 それは、君にとって? ……嬉しいわ。でも……。
 僕は若く、愚かで。あの日々も、今も変わらず、哀しいものを抱き続けているうちに、彼女は遠く高いところにいってしまった。川の向こう岸に目をやる。そして指を差す。
 あの花は、何という花ですか。
 ……知らないわ。ねえ、わたし、もう行かなくちゃ……暗くなってしまうわ。
 彼女を引き止める言葉を、僕は知らない。いや、もっと早く知らなければならなかった。今はもう、彼女は僕の立つ大地の上にいない。僕はただ下ってゆき、彼女はただ上っていく。
 何も言えぬ僕を残して、彼女は去っていく。僕は振り向く。抱き締めれば折れそうだと思っていた彼女の背中は、もう背負うべき全てを背負えるものになっている。夕暮れの影へと消えてゆく彼女を、見つめ続けることもできず、僕は川の向こう岸に目をやる。僕は泣いている。あの花の名前は、何だろう。この川は何という名で、どこから流れどこに通じているのか。何を問うても、涙の途切れることはない。若く、愚かであるために。

カテゴリー:創作.
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