現実……

 なかなか覚めない夢のことを、現実って言うんですよ。

 ――覚めない夢なんてない。

 ……はい、だから。

 いつかは覚めるでしょう?

 早朝。入り江の砂浜から突き出た桟橋で、彼女はいつもの歌をいつもどおりに――いつもの白いワンピースに、長い髪をなびかせて――歌っていた。僕の知らない、けれど懐かしい歌。何万年も昔から聴いてきたかのように、心のどこかに刻みこまれている歌。
 人に気づくと、ミズホは歌うのをやめてしまう。いくら息を潜めて近寄ってもだ。だから、間近でその歌を聞くことはできない。歌詞を聞き取ることもできない。
「トシくん、おはよう」
「うん、おはよう」
 僕が桟橋に座って足を空に投げ出すと、ミズホも同じように僕の隣に座った。ミズホの方が少しだけ歳上だけれど、背丈はほとんど変わらない。
 静かな海だ。波の音さえ遠慮するような、時の止まった入り江。新たに生まれるものも、朽ちてゆくものもない、なかった。少なくとも、僕らのここにいた時間の中では。
「……今の歌、なんていうの?」
 僕が何度も繰り返してきた問い。返事はいつも沈黙だった。見ると、イヤリングをいじりながら微笑みをうかべている。この浜辺をいくら探しても見つからないような、美しい貝殻のイヤリング。
「……知らない」
「え?」
「知らないの。なんて歌なんだろう。どこの言葉かもわからない」
 何度も繰り返してきた問い、そう返ってきたのは、初めてだった。
「外の世界の歌かもしれない」
 そう言いながら彼女は、そっと人差し指を僕の唇に当てた。僕の目をまっすぐ覗き込む。
「ないしょだよ、今の話。お爺様にも、優子さんにも灯台守さんにも。うちのお父さんお母さん、夢見さんとジュンくんにもね」
 つまり、誰にも言うなということ。僕は頷く。ミズホは首をかしげて笑って、そっと指を放す。僕は唇をシャツの袖で拭く。彼女は立ち上がり、その白く細い足の先を目で追ってしまいそうで、慌てて顔を海面にむける。
「また後でね」
「……うん。じゃあ」
 彼女が歩いていく音も溶け、海を再び静寂が包む。何も変わらない海。この凪の海のむこうを僕は知らない。岬の先の灯台からも何も見えない。でも、彼女は? 僕は振り返る。
砂浜。その先の林。そして大きな山。彼女の姿は、もうない。

カテゴリー:創作.
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