雨が降れば彼女は、ここには来ないだろう――

ちょうど、梅雨の雨の降る水曜日の昼過ぎだった。重く陰鬱な空気……黒板を見上げるのさえつらいような時間。僕は教科書はとりあえず広げてその上につっぷして、禿げあがった教師の言葉を子守唄のように聞きながら薄灰色の窓の外を見ていた。
一分過ぎる度に時計を見上げることさえ気だるい英語の授業。
彼女が唐突に――教室の真ん中で立ち上がった彼女が僕にとっては唐突に、そう言ったのだ。
水圧に押し潰されそうな大気の中で、その声は透明で鋭く張りつめた弦のように小さくはっきりと響いた。

夢。都市の雑音で現実に引き戻される。朝早く起きてたどり着いた都心の駅の入口。コンクリートの柱によりかかって町を眺める。青みがかった灰色の空。しとしとと降り続ける雨。かつかつと耳を打つ足音、黄色い甲高い話し声。
まだ夢心地のままだった。……いや、おそらく、意識の下ではもう諦めている。それに気づかない、ふりをしているだけ。彼女の姿や声、手紙の文面を思い出す度に浮かぶ微笑みももう、ただのごまかしなんだろうと思う。

――久しぶり~。元気だった?
先週だった。急に彼女から電話がきた。

僕は彼女のことが好きで、たぶん彼女も僕のことを好いてくれていて、僕らは付き合っていた。中学三年生の間。中学を卒業したら終わりだということはわかっていた。親の仕事の都合で東京に引越すことが決まっていたから。
あの時――彼女に好きだと伝えたとき、僕の心の中には確かに、むしろつらくなるのではないか、という思いがあった。彼女に拒絶されまいと、もちろん拒絶されようと、ただ苦しみをうむことにしかならないのではないか。いっそ片思いのまま時が過ぎてゆくのを待った方がいいのではないか。僕は東京に行って、そこでまた誰かを好きになればいいのではないか――。
結局僕は上手に気持ちを伝えてみせて、そして彼女はおかしそうに笑って、「じゃあ、わたしも」と心地のよい落ち着いた声で言った。事が上手く運ぶことに慣れていなかった僕は驚いてしまって、彼女はまた笑って、それから一歩、僕の方に身を寄せた。

――今度、修学旅行でそっち行くんだ。
彼女は電話でそう切り出した。僕はそう、とだけ答えた。ただ電話越しに彼女の声を聞いただけなのにすごく嬉しくて、乾いた世界に湧きだした水が行き渡っていくように充足した気分になった。

物理的な距離は、確実に二人の間を分かつ。いくら気持ちに変化がなくても、どちらかが連絡を取らなくなるというわけでなくても、電話の本数は減っていった。あの町とこの東京はあまりにも遠く、東京での生活は目が回りそうになるほどにめまぐるしく進んでゆき、そしておそらくあの町での彼女の時間も、僕らがいっしょにいたころとは比べ物にならないくらいの速さで流れてゆくのだろう。いちいち過去の思いに立ち戻っていては追いつけなくほどに。

――班から抜け出すから……会おう?
彼女は電話口で、遠慮がちに言った。来週。部活の用事が入っていたけれど、切り捨てた。足りないもの、あの町あの時間に忘れてきたもの、東京にきて無くしてしまったものを彼女と会うことで再び手にいれることができる気がしたから。会おう、大丈夫、と僕は言った。

予報どおりの雨。秋の深まりからからに乾いた東京に気まぐれにやってきた雨雲。小雨でもなく大雨でもない、中途半端な雨。当たらないと評判の予報士も当たると評判の天気予報も予測していた雨。誰もが降ることを知っていた雨。
悔しさをこらえきれなくなって、傘を叩きつけた。かん、とあまりに些細な音がした。それはただ雑音の中に溶け込むだけの、どこにも響かない、意味のない音。よけいに悔しくなって、そして悲しくなった。背中の柱を肘で殴る。痛い。人混みは僕のことなど柱よりも気に止めないで、それぞれの目的地へ急ぐ。なんで、なんでこんな……わかっていたのに……つらいんだろう。わかっていたのになぜ僕はここに一人つっ立っているんだろう。……馬鹿みたいに。

――あ、もし雨が降ったらね。
彼女は思いついたように、万が一可能性のあることを話すように、軽く付け加えた。
――会えないかも。雨の日の日程だと、抜け出すのきついから。でも、大丈夫だよね。
ああ、大丈夫と、僕は言った。何の根拠もなく。ただの希望だったんだ。おそらく彼女にとっても。大丈夫だなんて使い慣れた言葉で返すことしかできないくらい根拠のない希望。けれど僕はそれを疑いなく信じ、その日待っていた。昨日の夜は、都心には降らないだろうと。今日の朝は、すぐに晴れるだろうと。そう思った。心の底なんてものは、いくらだって隠せるようになっている。

上手くいったのはあの時、彼女に思いを伝えた時、だけだ。奇跡はただ待っているだけじゃやってこない。世界はそうやって回っている。勇気を持って立ち向かった時にだけ、本気で頑張っている時にだけ奇跡はおこる。そんなこと、知っている。上手くいくことなんて、めったにない。ずっと昔から変化することのない事実。
僕の体は自然と柱を離れ、雑踏の中へ……雨の降る町へ、入っていく。雨が体を濡らし、体から力が抜けていく。人混みを僕を避け過ぎてゆく。東京の町では、誰の目にも僕はうつらない。そう気づいてからもう数年がたつ。
このまま上手く、意識を閉ざすことができたらいいのに。
僕はしゃがみこみ、手のひらで口を覆った。雨が髪の毛をつたい、アスファルトに垂れる。冷たさで感覚がなくなっていく――。

雨が降れば彼女は――

「どうしたの?」

彼女は――僕は天を見上げる。
青色の大きな傘。そして、今にも泣きだしそうな瞳。

「大丈夫?」

控えめなのによく通る声。眩しくて、僕は目を手のひらで覆う。
大丈夫、と僕は言った。

あとがき・・・・・・・・・・・・
なに書いてんだろ……テスト前に……。

カテゴリー:創作.
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