秋深し朝霧です。はい、まだ全然深くないですね。今日は我が校の、子曰く日本一の文化祭だったんですけど、あの、寝坊、しましてね。我ながら俺ってただものじゃないなと感じたしだいです。言い訳が忘れてましたですからね。あ、手近に萩原朔太郎詩集があるのでこいつをネタに即興とwikipediaでなんか書いてみます。萩原朔太郎といえば、現在の一般的な詩の形式である口語自由詩が広まって間もないころの詩人。口語といえど古典で習うような日本語なのですが高校生レベルの知識でも十分に読めますし、古典を習ってなくてもニュアンスは伝わってくる。しかし私が彼の詩に感動する点は詩の内容だけでなく、言葉の響き、流れといいますか、まさに声にだして読みたい! というところなんです。萩原朔太郎は1942年に死去されたため著作権が切れていますので、詩をひとつ全文紹介したいと思います。


こころ 萩原朔太郎

こころをばなににたとへん
こころはあぢさゐの花
ももいろに咲く日はあれど
うすむらさきの思ひ出ばかりはせんなくて。

こころはまた夕闇の園生のふきあげ
音なき音のあゆむひびきに
こころはひとつによりて悲しめども
かなしめどもあるかひなしや
ああこのこころをばなににたとへん。

こころは二人の旅びと
されど道づれのたえて物言ふことなければ
わがこころはいつもかくさびしきなり。


いやはや美しい。日本独自の言葉である和語がほとんどひらがなで表記されていますが、これは本来声に出さなければ気付かない音の美しさを示すのに役立っているよう感じます。
もちろん全文好きですが、私が一番気に入っている行は一連の四行目、“うすむらさきの思ひ出ばかりはせんなくて。”。特にこの「せんなくて」という部分が好きです。もう文字からして女性的な柔らかさに富んでいて、声にだしてみれば日本に生まれて良かったと叫びたくなるような、美しい日本語です。「せんなくて」、文法的に説明するとク活用形容詞「詮無し」連用形プラス「て」、この「て」はちょっと私の知識では自信を持てないのですが、おそらく接続助詞の「て」で意味は単純接続。これではふつうに古文として読むと難しいですが、現代的に考えて、いわゆる「~てね」みたいな感じなんじゃないかなと思うのですが、どうでしょう? いやあ難しい、ですがまあ意味はだいたい「思い出ばかりはどうしようもなくて」みたいな感じでしょうか。

これは本当に独自解釈ですが、「こころ」をあじさいの花に例え、「ももいろに咲く日」が近頃、「うすむらさきの思ひ出」が、つらかったころか悩んでいた若かりし頃、ということなんだと思います。
あじさいは「七変化」と呼ばれるほどさまざまな色で咲く花ですが、初めに青かった花もだんだん赤みがかかってくるそうです。まあ、つまり、そういうことですよね。いやwikipediaにそう書いてあったんですけどね。

オチがついたところで、この詩集に散文詩がいくつかのってまして、こういうのもありなのか!? と何かひらめいたようなひらめかないような。『AULD LANG SYNE!』という散文詩がありましてこれもゴーグルで調べたところスコット民謡のことで、日本で言う蛍の光のことなんですってよ。ちょっと見聞が広がりましたね。

ちょっと……いやかなりまとまりないなぁ……あでぃおす。

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