May 02

「ナワバリ」の神父と日本人――『哭声/コクソン』

2017年5月2日 朝霧

 素直にサスペンス・ホラー・エンターテイメントとして楽しめば良いのかもしれない。しかし、あえて、つまらない考察を試みたい。ナ・ホンジン監督の映画『哭声/コクソン』についてである。
 「コクソン」は、叫び声を表す「哭声」と「谷城」という地名の読み方を掛けたタイトルなのだろう。舞台は谷城という田舎の村であり、主人公は警察官で、惨殺事件を調査しているうちに自分も巻き込まれていく、といったストーリーである。結果的に、悪霊の取り憑いた人物(『エクソシスト』的な描写といった感じ)が事件を起こしていると主人公たちは判断し、韓国土着(風)の祈祷師と共に、その悪霊を退治しようとするが……結末は後に語ることになるだろう。

1 役立たずの神父

 この映画で悪霊と目される存在は、國村隼が演じており、役としても日本人で、「日本人」と呼ばれるのだが、キリスト教的な、キリスト教的世界観において想像される悪霊のようである。裸(褌一枚)で生肉を直に食らう姿は獣的だし、妖しげな儀式を行ったり、カラスを用いたり、取り憑かれたものはヒステリー状態となって、身体を異常に仰け反らせたりする。さらにはゾンビ化する人物も現れる。映画の冒頭にルカの福音書からの引用もあったが、『哭声/コクソン』は、ある程度の部分、キリスト教的世界観にのっとった映画なのである。知られているように、韓国においては、近世・近代に入り込んだキリスト教が一定の勢力を持っており、この世界観自体に違和感はない。
 映画『エクソシスト』でキリスト教的悪霊祓いを行ったのは二人の神父であった。この映画でも同じことが期待されるが、まず俗人たる主人公たちが頼るのは祈祷師の男である(韓国の宗教や儀式には詳しくないが、彼の悪霊祓いは何か伝統的な形式なのだろうか、エキゾチックな創作なのだろうか。まあ、後者という気がするが……)。そしてその後で神父に相談することになるのだが、あろうことか、神父は、そうした非科学的なものを否定し、病院を勧める。もちろん、悪霊に医学は効きようがない。最も活躍すべき神父は、この映画では、期待に反してまったくの役立たずなのだ。

2 「ナワバリ」に入り込む「日本人」

 入り込んだキリスト教、と先に書いたが、「日本人」もまた、外部から、谷城に入り込んだ存在に違いない。國村隼演じる「日本人」は、山奥の孤立した一軒家に住み、パスポートも持っているのだが、そこで妖しげな儀式を行い、基本的には、主人公たちによって悪霊と目される(彼は観る者にもかなり不気味に映る。おそらくは韓国人/語と日本人/語の近さと通さが違和感となり、不気味となるのだと思うのだが、韓国人が観れば、より不気味なのではないだろうか?)。祈祷師は彼は「死者」なのだと言いもする。主人公たちの会話によれば、彼が現れてから、村では奇妙な事件が続いているらしい。彼こそ悪霊であると考えた主人公たちは、彼を「ナワバリ」から追い出そうと、彼の飼い犬を殺したり、集団で武器を持って襲撃に行く。
 さて、おもしろいのは、「ナワバリ」という言葉である。どうも、韓国語においても、ほぼ「ナワバリ」という音で、日本語の「縄張り」と同じ意味を表しているようだ。「ナワバリ」に入り込んだ「日本人」、「日本人」を「ナワバリ」から追い出すという状況にあって、そもそもその「ナワバリ」という言葉が日本語由来なのである。異物たる日本――日本人/語は、肉と骨を持った「日本人」一人だけでなく、その土台にまで食い込んでいるのだ(洋服、その他諸々、言うまでもあるまい)――どこか暗示的である。

3 祈祷師と謎の女

 入り込んだもの――キリスト教と日本に対する者として、男の祈祷師と、謎の女がいる。祈祷師はどこかエキゾチックな土着性を感じさせる存在である。祈祷師の行う悪霊祓いの儀式も、いかにもアジア的といった感じのするものである。謎の女は、彼女もまた韓国人のようだが、どこか透明な存在である。つまり、奇行をのぞけば、見た目としてはごく普通だ。まじないを行う力があるようだが、その力の行使の仕方もほとんど描かれない。
 おもしろいのは、この二名もまた、対立しているように見えるところだ。謎の女は祈祷師に嘔吐・吐血させる。祈祷師は主人公に「女を信じるな」と言う。同じ朝鮮半島人で、外から入り込んだわけでもなさそうな二人の対立――どこか暗示的である。

4 日本人/悪霊/聖痕

 映画は最終的にはほぼバッドエンドで終わる。キリスト教的悪霊に対して土着的な祈祷・まじないで挑んだ、そのミスマッチ故ではないかという気もするのだが、その最終盤に、主人公の仲間の一人(キリスト教会の助祭)が洞窟へ、悪霊と目されていた「日本人」に会いに行く。そこで男はいかにも悪霊じみた、目が赤く、皮膚が黒く、牙があり、骨張っていて……といった姿に変身するのだが、カメラはその手の聖痕を捉える。聖痕とはもちろんイエス・キリストの磔刑の際についた傷であり、また信者の手に奇跡として現れることがあるという傷だが、その傷は、もちろんキリスト教の立場から言えば善きものだ。そうでない立場から見れば罪人・死刑囚の証とも言えそうだが、ともかく手にそのような傷の現れている彼は、単純な悪霊であるはずがない。後に書くように、この「日本人」は実は物語における善の存在である可能性もある。しかし、正しく悪霊である可能性もある――ここにきても、「日本人」は善悪を判断することの不可能な存在なのだ。
 これまで、暗示的、暗示的と書いてきたが、もちろんこれは、朝鮮半島史の暗示として読み取ることができる、という意味で書いている。朝鮮半島に外部から入り込んだもの、朝鮮半島の朝鮮人同士の対立、こうしたモチーフは、現実の朝鮮半島の歴史と今ある社会的状況を連想させる。もちろん、監督なり脚本家なりがそれを狙っている、と言うつもりはない。無意図であるとすれば、韓国で映画を撮るときに、意図せずともそうした外部が映り込むということであるが、どちらでもいい。
 では、「日本人」=聖痕を持つキリスト教的悪霊の、善悪を判断することの不可能性、あるいは善悪の両義性は、どのような歴史を、社会的状況を、暗示していることになるだろうか。

5 解答はない

 しかも、「日本人」=悪霊が悪者だった、ということで、すべてのシーンを納得できるわけではない。例えば、ゾンビ化した人物が主人公たちを襲う前、「日本人」はその人物に対して何か儀式を仕掛けていた描写があり、その人物はその儀式から脱出したように見える。そして彼が主人公たちを襲う際には、「日本人」は物陰からその様子を真剣な表情で見ており、ゾンビは突如苦しみだして死ぬのだが、主人公たちの物理的攻撃にはまったくダメージを受けた様子のない彼を殺したのは、物陰から覗いていた「日本人」である可能性があり、そうだとすれば、それは、主人公たちを助ける行動だ。結局、祈祷師の言うように、呪いをかけていたのは謎の女であり、日本人は善だった……そういう可能性もある。
 そして、他の可能性も、いくらでも考えられる。「日本人」も謎の女も主人公の娘(すばらしい演技力である)の持ち物を持っていた。被害者の写真は、決して確実な証拠ではあるまい。「惑わされるな」と謎の女は言うが、その言葉さえ誘惑の言葉なのであり、主人公も、観る者も、惑うほかないのである。

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Apr 28

井の頭公園の/のような映画――瀬田なつき『PARKS パークス』

2017年4月28日 朝霧

 橋本愛演じるヒロイン「純」の元へ、永野芽郁演じる準ヒロイン「ハル」がやってきて、かつて純の住んでいた部屋に住んでいたという写真の女性のことを教えてほしいと言う。成り行きでハルは純の部屋に泊まり込むことになり、その女性の孫である「トキオ」(染谷将太)と出会い、やがて女性の遺したオープンリールを手に入れる。その50年前のオープンリールには、井の頭公園で演奏された歌が録音されていたが、データが破損しており、その曲を完成させようと純とトキオが奮闘する――物語のあらすじとしてはこのような映画だ。

 製作背景は知らずに観た。ホームページを見れば色々と書いてあるのだが、そのホームページのタイトルを見ると「井の頭公園の映画『PARKS パークス』」とある。またそのホームページには「さまざまな人々が忘れがたい時間を共有し、やがて去っていく公園のような映画」という表現がある。制作側によれば『PARKS』は、橋本愛と永野芽郁(天使)がひたすらかわいいだけの映画ではなく、井の頭公園の/のような映画らしい。なるほど、そう言われると確かに、と思わせるところがこの映画にはあった。

1 井の頭公園の映画

 まず、この映画は「井の頭公園の映画」である。映画について、自分に語る資格があるのかは疑問だが、やはりその始まりは、おそらくは現実の記録と再生を目的としていたのではなかろうか。そして井の頭公園の開園100周年を記念する映画でもある『PARKS』は、井の頭公園を記録し、再生するものであるという意味で、まさしく「井の頭公園の映画」なのだ。主人公格の三人は、井の頭公園、吉祥寺の街の各所各所を走り回り、踊ってまわる。三人は三人でオシャレでかわいいのだが、そのオシャレさも中央線沿い・吉祥寺のイメージにマッチしている。引きで撮られるシーンも多く、通常は背景である空間を妙に意識させられるその映像は、どこか名所案内・PRめいて見えさえするのだが、「井の頭公園の映画」としては、これが真っ当な撮られ方なのだ。もちろん、それぞれの俳優にフォーカスがあたるシーンも少なくない。しかし同様に、井の頭公園・吉祥寺の街もまた、三人と並ぶ主役なのである。

 また、井の頭公園は、ビデオカメラで撮影されたことで、映画『PARKS』として記録され、再生されるわけだが、映画の物語においても、記録される。ラッパーであるトキオのアイデアで、公園の音がサンプリングされるのだ(ラップ文化に詳しくなく、厳密にはサンプリングではないのかもしれないが、音楽に用いようと公園の自然音を録音していた[追記:ハスキーさんいわく「フィールドレコーディングの方が一般的かな」とのこと。どちらにせよよくわかりません!])。本作では、例えば冒頭に、自転車で井の頭公園を走る橋本愛を映しつつ、彼女の声で、物語を春から始めたい、桜のシーン終わらせたいといった物語の外側の台詞があったり、サンプリングのシーンでカメラにマイクを当てたり、映画の物語においてハルの書いている小説と映画の物語が入り混じったりと、撮影/映画内物語/映画内物語内小説の枠を越境するような演出があったが、三人の行ったサンプリングもまた、この映画の公園の記録という側面をメタに表現していた。そういえば、映画には50年前に公園で録音され、データが破損し完全には聴くことができないオープンリールも出てきた。この映画が記録の側面を持つものであると同時に、記録は映画の物語において主題化されてもいた。

2 井の頭公園のような映画

 そして、「井の頭公園のような映画」である。ではこの映画のどこが公園のようであったのか? 「さまざまな人々が忘れがたい時間を共有し、やがて去っていく公園のような」とあるように、この映画自体が、吉祥寺や井の頭公園を愛していたり、バウスシアターを愛していたりした人々の縁になるという解釈もできるだろうが、逆に、映画における井の頭公園のあり方が、映画じみているのだと、そういう見方もできる。映画の物語において、50年前の恋愛が描かれる。それはハルの夢?(想像? 小説?)の中の出来事として演じられ映されるのだが、その恋愛の中心となる男女は、物語の開始時点で既に死んでいる。さらには、もう一人の登場人物も、物語の終盤で死ぬ。その死を含むシークエンスはこの映画の最もネガティブな時間であり、またそのネガティブさに反して復調は早く、幸福感あふれるこの映画になぜこのネガティブさが必要だったのか、なぜ容易に復調されたのか、いまいち考えをまとめられていないのだが、それはともかく、映画においては、こうして死んでいくもの、喪われていくもの、それを再生させる縁として、井の頭公園が機能している。100年間存在する井の頭公園には、100年分が焼き付けられているのだ。そしてそれは、ハルのように、そこを訪れ、それを臨む者によって、再生される(夢、想像、小説、何であってもいい)のである。

 さらには、その再生は、記録的な、単なる過去の復元ではない。50年前の当人たちは死んでいる。ハルによって再生された50年前は、完璧な過去の復元であるはずがないし、完璧どころか、まったく違っている可能性さえあるのだ。不完全なオープンリールの音源を完成させようという純やトキオの奮闘にも同じことが言える。初め、彼らの「完成」させた曲は、ハルによって否定される。「ポップでダンサブル」を目指してエレキギターやラップやベースやドラムを加えたそれが、50年前、恋人に向けてアコースティックギター一本で弾き語られた曲の完成であるとは、確かに考えがたい。しかし、ネガティブなシークエンスを越えて、最後の最後に歌われるその歌と映像には、幸福感が蘇っている。そして、振り向いたハルは微笑む。最後に歌われるその歌は、単純に考えれば、50年前の歌の完成ではない。しかし、ハルによって再生された50年前の恋愛の物語と同程度には、再生である。そして、思えば再生という言葉は元来、生まれ「かわる」ことを意味している。物語において、公園は確かに再生させた。映画のように――井の頭公園の映画、公園の記録などと先に書いたが、映画もまた、撮影時の完全な井の頭公園を復元したりはしない。それは再生されるだけだ。

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Apr 06

東北から病室まで 

2017年4月6日 朝霧

 三月、ふと思い立ち東北へ行った。初日は新幹線で一関まで行き、電車やらBRTやらを乗り継いで、陸前高田の「奇跡の一本松」を観た。低い土地はおおかたすべて流されてしまったか破壊され片付けられてしまったのだろう、陸前高田の役所のあたりから下っていくと、一面砂漠のような土木工事現場であり、風と大型トラックが土埃を舞い上げていた。大地から造り直しているのだ。一本松はその先にあった。平日だからかいつもなのかは知らないが閑散としており僕の他は家族の一組だけであった。家族の祖父はハーモニカで「花は咲く」を吹き、母と息子は一本松の前で写真を撮り、なにやら語らっていた。木、ユースホステルだったという建築や中学校の遺構。何も感じないわけではない。たとえば、人間の矮小さ。使い古された比喩だが、やはり人間は、寄生虫じみている。皮膚にはりつく寄生虫、気づかれぬよう、少しずつ身体を蝕むが、一払いで潰されてしまう――そのように生きるしかない、もちろん。ぼろぼろの観光客ノートが置いてあった。何か興味深い書き込みがあるかもと思いめくったが本当につまらないものだった。

 その日は石巻に泊まった。石巻までもまた遠かった。石巻である必要もなかった。なぜ石巻に泊まったのだろう? 夜の石巻は驚くほど寒かったが、同じ電車に乗り合わせて同じく石巻で降りた女子高生のスカートもまた驚くほど短かった。東京ではもうあのようなミニスカートは見ない。スカートの短さとスクールカーストは比例するというような俗説が頭をよぎった。俗説だろうが、僕の中学生だった頃は、それはリアルだった。本当にもうほとんど常に下に穿いているものの見えている先輩がいて、友人と笑っていたことを思い出した。

 翌朝やはり海の方まで行った。陸前高田よりも補修は進んでいるようであった。松島を観にも行ったが特に語ることはない。

 仙台でSNSで知り合った方と会った。同世代の、趣味の良い男性。コーヒーショップに連れていってくれた。演劇の話、音楽の話、研究の話(いわゆる文系理系トーク)。

 翌日、いわきまでバスで移動した。子供の声ばかり聞こえた。子供しかしゃべっていなかった。後方では母親とおそらく言葉だけでままごとをしたり、父親を起こそうとしたりする女の子の声。前方では姉が妹の髪を結おうとして三〇分はいじっていた。退屈だったのだろう。やがて妹はスマートフォンでゲームを始め、おそらく難しいところをやってもらおうと姉に渡そうとしたが、突き返されていた。

 いわきでは『タイムライン』というミュージカルを観た。その感想は別に書いたので省くが、ともかく中高生の歌い踊る舞台である。子供、中高生――そういえば昨日仙台の喫茶店でおもしろい話を盗み聞きした。話していたのはどうも高校を卒業したばかりの女子三名であったが、そのうちの一人によれば、通っていた学校に、鳴らしてはいけない、鳴らしたら鳴らした者のみならず聞いた者まで志望校に落ちる、そういう鐘か鈴かがあったらしい。そしていつか卒業生たちがおおいに鳴らしているのをその女子は聞いたことがあり、ならばと思い自分も鳴らしたら先生にひどく叱られたという。どこかに聞き間違いがあるかもしれない。いったいどういう鐘か鈴なのか、どういう場所にあるのか、まったくわからない。しかしこの話の理不尽さには覚えがある。

 子供、中高生――僕にもそう呼ばれる時期があったが、自身のことを思い出してもやはり、あれは、理不尽な季節である。理由もわからず、縛られ、傷つけられる、あるいは傷つけなければならない。おそらく誰にとってもあれはそういう季節だ。

 夜、夕食と書店を求め街を歩いた。もちろん旅先だからだろうが、いわきは、地方都市らしい情緒ある好い街だと感じた。

 朝、まったく食欲がなかった。朝食にと買っておいたパンはすべて手をつけずに置いてきてしまった。

 特急はやがて東京に入り、雨が降っていたが、傘を差し、黒い服を着た一団が墓参りをしているのを車窓に見た。少し遅いが彼岸参りか、あるいは黒い服を着ていたし誰かの死んだばかりであったのかもしれない。墓参りを集団は少ししてからもまた見た。東京、数千万の人間を抱えるこの都市で、死に、骨となって累積されていく膨大な人々。昼を過ぎても食欲はなく、お菓子を一つ食べただけであった。

 翌日から熱とひどい咳で寝込んだ。熱は三日続いた。仕事も休んだ。その翌日と翌々日は仕事に出たが、症状はなくても身体はだるく、その夜、腹部の激痛で病院へ行き、そのまま入院することになった。

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Mar 26

福島の今、過去から未来へ――チャレンジふくしまパフォーミングアーツプロジェクト『タイムライン』藤田貴大

2017年3月26日 朝霧

タイムラインフライヤー
チャレンジふくしまパフォーミングアーツプロジェクト『タイムライン』
演出:藤田貴大、音楽:大友良英、出演:ふくしまの中学生・高校生

1 福島の今

 『タイムライン』において、「なんともない日々の わたしたちのタイムライン」から始まる、フライヤーにも掲載されている台詞が、繰り返し発せられる(それは音楽や舞台上を動き回り歌う少女たちの声に掻き消され聞き取ることが困難なときもあるが、当日も(なぜか二枚)配布されるフライヤーによって観る者に刻み込まれたこの台詞は、「聞こえる」)。そして主に演じられるのは、「おはよう」から始まり、学校で、時間割に沿って、見慣れないルールに従っているらしいゲーム(そのルールは観ているだけで理解できるものもあれば、理解できなかったものもあった。コミュニケーションと運動量を伴う、何度か見たことのある劇団が開演前や稽古前に行う「アップ」にも似ているように思うのだが、そういったゲームである)を行い、そして「おやすみ」で終わる、繰り返される日常だ。明日も学校、と少女たちは言う。昨日も今日も明日も、「おはよう」から始まり、学校に行き、「おやすみ」で終わる一日なのだ。そして、演じられるその日は、「あの日」と呼ばれている。
 福島県いわき市での公演。「あの日」「3月」「海が見える」――そうした台詞は私たちに、ある特定の日付を思い出させる。あの日、地震とそれに続く津波によって、いわき市でも多くの犠牲者が出た。その後の原子力発電所での事故も、市民に多大な影響を与えた。『タイムライン』は私にあの日を思い出させた。
 「あの日」「3月」「海が見える」といった台詞からあの日を思い出した私は、そこで、地震と津波を半ば「期待」していたと言えるだろう。あの日、そうした日常が、崩れ去ったことを知っているからである。このミュージカルにおいてあの日がどのように描かれるのか、僕は半ば「期待」していた。
 しかし、地震は起こらない。
 ‪劇中の「あの日」とは、素直に観れば、私たちの共有するある特定の日付、あの日、ではないようである。その日、地震は起こらない。少女たちは何事もなく学校の時間割を消化し、帰り、明日も学校、などと呟き、眠る。「冬型の気圧配置、強めの寒気‬」と歌い、ミュージカルは終わる。
 しかし考えてみれば、なぜ僕は少女たちの「あの日」という言葉から、あの日を思い出したのだろう? 福島県の中高生の少女たち(楽器隊には男子もいて、なかなかの存在感であったが)は、舞台上で中学生を演じていた。演者の年齢と役の年齢が重なっていたわけである。であれば、彼女たちは現在(そういえば「福島の今をどのように演じるか」というようなことを開演前に福島県副知事が挨拶の中で言っていた)の範囲に含まれる「あの日」を演じていると考えることができそうだ。あの日から6年(初演は去年であり、5年後なのだが)、あの日には小学生だった子供たちが中高生になっている、そういう現在である。
 非日常、劇中の台詞の言葉を用いれば「タイムライン」から抜け出す時間も描かれる。夜中、「おやすみ」の後で、少女たち三人が、川に沿って歩き、海を見に行くのだ(見たいときがある、というようなことを少女の一人が言うが、そういう動機でである)。海を見ながら、「明日も学校か」と少女の一人が呟く。6年後の「3月」に、彼女たちは海を見に行った。そのように見ると、その気持ちも想像することができる。

2 過去から未来へ

‪ 藤田貴大は2015年頃から未来を描こうとしているようだ(関連記事)。『タイムライン』も、未来を描こうという試みのようだ。
 『タイムライン』には、今は過去にとっての未来、未来にとっての過去、というような台詞があった。現在、「なんともない日々」の「繰り返し」である現在が、過去にとっての未来であり、未来にとっては過去であるという、どこかで見聞きしたことのあるような言葉ではあるものの、象徴的な台詞だ。
 この台詞のように、「繰り返し」が、‬過去と未来を繋ぐものとなっているようである。藤田貴大/マームとジプシーの代名詞ともなっているいわゆる「リフレイン」は、あくまで過去の再来であったと言えるだろう。藤田貴大が未来を描くことに困難を感じていたのは、彼の核心的手法である「リフレイン」が過去にフォーカスを当てるものであったからだと思われる。
 では、今作ではどうだったか? 確かに繰り返される台詞、「リフレイン」的演出はあった。しかし、描かれたのは「おはよう」から始まり「おやすみ」で終わるただ1日であり、その1日自体は「リフレイン」されない。しかしその1日は、少女たちの台詞によれば、繰り返される――「繰り返し」としての日常は、これまでも繰り返されてきたという意味で、過去の再来であり、これからも繰り返されるという意味では確かに、未来でもある。『タイムライン』は、「なんともない日々」の「繰り返し」という言葉によって、未来を描いている。
 日常、「なんともない日々」の「繰り返し」は、突如断ち切られることを、私たちは知っている。しかしそれでも、私たちが、6年後の今、6年後の今なりの「繰り返し」を生きているのも確かであり(もちろん未だ非日常を生きている者も大勢いる。それを忘れてはならない)、「繰り返し」を生きるしかない、夜中に海を見に行くといったような小さな抜け出し方しかできないというのもまた、確かである。未来とは、実は「繰り返し」に過ぎない、のかもしれない。逆に言えば、「繰り返し」こそが、そもそも厳密に「繰り返し」であるはずもなく(関連記事)、未来そのものなのだ。

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