Nov 10

「現代文単語/キーワード」に関する参考書について、今のところのベスト

2020年11月10日 朝霧

 私が高校生だった頃は意識したこともなかったのだが、世の中には「現代文単語」とか「現代文キーワード」とかいう参考書がある。Z会の『現代文キーワード読解』の初版が2005年で、これがかなり初期のものなのではないかと思うのだが、だとすれば、やはり私が高校生だった頃にはまだそれほど知られたものではなかったのではなかろうか(特に、片田舎の昔ながらの進学校には)……と思ったら、『MD 現代文 小論文』という「これまでの辞書とはまったく違う」やつが1998年初版だった。しかしこの本さえ、もう「現代文」の参考書としては古い……。説明するまでもなかろうが、内容としては、「現代文」の入試などに出題される「評論文」に頻繁に用いられる概念や、小説の読解に必要となる背景にある概念を説明している参考書だ。今では学校でも副教材として広く買われているようだが、おそらくこうした教材が生まれる前は、先生方が社会科学・人文科学の教養を駆使し、授業中に(生徒目線では)雑談的に繰り出される知識がその役目を担っていたのだろう。

 しかし、これら参考書がなかなか使えない。そもそもそれなりの読解力と最低限の知識がなければとっかかりがなさすぎて自学自習に向かないという生徒目線の問題はまだしも、社会科学・人文科学の教養を備える我々からすれば、それら参考書の説明は簡便で一義的すぎて、評論における幅広い・慣習的な用法に対応できない。そもそも「これが載ってないの!?」というものが多すぎる。例えば、今は「原理主義」のまともな説明をどこからも見つけられないし、「新自由主義」を満足できる程度に説明しているのは筑摩書房の『評論文キーワード』くらいだ(もちろん、すべてのこの類の参考書を見たわけではないが、結構見た)。筑摩書房『評論文キーワード』は斎藤哲也といういろいろと目にする人物が編著者としてクレジットされているが、結構なこの類の参考書にはそうした名前もない(『MD 現代文 小論文』には予備校講師に並び大澤真幸の名もあるが……)。

 というわけで、今のところは筑摩書房『評論文キーワード』がベストと感じている(しかも手元にあるものは改訂前のもので、最近改訂版が出ており、少なくとも悪くなってはいないだろう。ところでやはり、「現代文」の参考書であるからには、改訂され続けなければ困る)(しかしこの本には、タイトルのとおり小説の語句に関するページはない。必要ない、というのが私個人の感想だが……)。しかしこれも、最初に書いた生徒目線の問題もあり、扱いはなかなか難しいものである。

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Oct 26

行き場としての死者とまだ生まれていない者――諏訪敦彦『風の電話』

2020年10月26日 朝霧

諏訪敦彦監督の『風の電話』を観た。広島の原爆の物語から始まり、父親のいない(おそらく死んでしまっている)高齢出産、性的暴力未遂、難民の物語(日本の入国管理の問題)、そして東日本大震災の傷へと繋がっていくストーリーは、社会的に過ぎ、荒削りに過ぎるようにも見え、モトーラ世理奈の荒削りな演技もあり全体としても荒削りな仕上がりと見えたが、モトーラ世理奈の周囲を固める俳優陣によってなんとか見られるものになっている。映画としての完成度はこのように感じたが、しかし、重い社会的テーマを織り込んでいるために、非常に、考えさせられもする。

原爆や、性的暴力や、「入管」の問題や、東日本大震災(故郷の喪失、家族の喪失、生きる意味の喪失)。これらは映画の中で、行き場のない感情として描かれていた。言い換えれば、誰かのせい、というようには描かれていなかった。それらは降りかかり、しかし誰かによってではなく(性的暴力でさえ、そこから助け出す男の方に焦点が移り、加害者たちは画面外に去り、思い出されることもない)、ただ哀しみを彼らに残す。ヒロインに自死の匂いが付き纏うのも、(単に彼女がモードなエモさを纏っているからではなく、)その行き場のなさが、自身に向かうからだろう。

考えさせられるのは、では、きちんと「加害者」に向き合うことが、では倫理的に正しいことなのか、ということだ。これは難しい。それは、法的な解決に繋がるかもしれない。しかし、それで済むことばかりではない。曖昧な言い方になってしまうが、「加害者」とは人である以上、「被害」と「加害」の関係の解消が、その解消だけで済んでしまうとは、限らない。

その行き場として映画に描かれたのが、おそらく死者の(そして、まだ生まれていない者たちの)空間だった。喪失を、傷を抱える彼らは、死者や、胎内に宿った命に、語りかける。

私たちは、あの日から、いろいろなことに怒りを表したり、希望を抱いたりしてきたけれど、実は、行き場のなさを、見出された「加害者」や「被害者」に様々な形で向けていただけなのではなかろうか。法的な解決(あるいは、「実際的」な解決かもしれない)は無論重要だけれども、きっと、それだけでは済まないから、終わらないのではないか?

映画で彼らは、死者や、まだ生まれていない者に語りかけるが、もちろん返答はない。しかし、それが重要なのだろう。彼らは物を言わない。しかし、生きている者は、死者を、まだ生まれていない者を、思い出し、思い描くことができる。作中には、自死を匂わせるヒロインに「死んでしまったら、誰が家族を思い出すのか」といった台詞があった。ここに描かれた生きることとは、死者に、まだ生まれていない者に、語りかけることなのだ。

そして、返答はない。そのことの意味とは、生きている者が、返答を求めて語りかけ、語ることが、そのまま、物語(ストーリー)となっていくことである。大槌町にあるという「風の電話」で「行方不明」の家族に話しかけるヒロインは、「元気?」などと問いかけながら、もちろん答えはなく、一人語り続け、やがて、生きることを語る。生きる、という結末へ、自らを物語り、物語をその結末へ、導くのだ。

これは、堅固な宗教を持たない生者が、喪失と向き合う生き方の一つの方法だろう。いや、あるいは、喪失とは、堅固な宗教などではどうにもならないような、極めて個人的で、個人的に乗り越えなければならない、重大な問題なのかもしれない。


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Oct 25

ほぼ日記 2020年3・4月

2020年10月25日 朝霧

「ほぼ日記」と題してnoteに日記的な文章を書き始めていたが、このままでは埋もれていくばかりだろうから、ブログにまとめておこうと思う。
振り返ると、今年の3月・4月というのは、ともかくコロナの季節で、2011年の3月・4月が震災と原発の季節であったことを否応にも思い出させる。

3/29 書き始めがもっとも難しい。
そういえば先日千葉雅也が執筆について語る電子書籍を読んだが、そこに「フリーライティング的に書く」というような話があった。

「じゃあ書きますか 。 」から始まってちょっと話が変わるところとかは 「ところで 」で適当につないで 、 「繰り返すが 」とかいって同じ話をする 。あと 「大きく言おう 」とか 。
仕上げの段階で制限にマッチするように調整していけば 、いらないところは自然に削られていく 。
書くための名前のない技術 case 3 千葉雅也さん

後段の引用はTak.というインタビュアーによるものだが、こんなテクニックで、「語り始めてみよう」と書き始めてみたり、「あの子たちの話をしよう」と書き始めてみたり、実は私も似たようなことをやったことがある。前者は小説「あの夜と〜」になり、後者は小説「時の何かを知らない」になった。最も難しい書き始めのテクニックである。

3/30 本棚
本棚を建てた。どう考えても一人で組み上げるようなものではなかったのだが、一人でやり遂げてしまった。今までで最も組み立ての困難な家具であったが、今までで最も安っぽい家具で、もちろん実際に安いものなのだが、しかしどんな安っぽい本棚であれ枠があれば本は収まるのであり、倒れかかってくることさえなければ文句はない。

しかし、本はまだ収まっていない。不思議なもので、本は本棚を増設したって収まらない。余裕が生まれると、分類にこだわりはじめ、来たるべき本の席ができ、結局収まり具合は変わらず、むしろ小さなスペースに分類も何もなく押し込んでいた方が収まっていたりする。とはいえ、視線や手が届く程度には本は前面になければならず、努力をするつもりである。

3/31 納豆がない
非常時だが生活をやめるわけにもいかず、これもまた丁寧な暮らしの一つの形態なのかもしれないと思いながら、スーパーで惣菜や炒めるだけの簡単なんちゃらを買う。明日から新年度となるが、きっと授業は始まらないだろう。微妙な気持ちで過ごしている。

非常時といえば、スーパーに納豆がなくて驚いた。非常時だからといって行動を変える人間のせいで常時どおりの行動を制限されることに憤る日々であったが、納豆を食べなければならぬ、と普段以上の納豆を買っていくというのもある種の行動の制限なのかもしれず、こんなことで憤っても仕方がないなと思うのだが、きっと命に関わる領域でもそういうことが起こっていて、その命というのは大抵、病人や障害者のものなのである……彼らが目に入るようになったのも、私自身病を持ってからだなぁと思う。

雪が降っても桜はまだ残っている。

4/1 横山光樹『三国志』を読む
昨日まで、ネットで無料で読めるようになっていて、頑張って横山光輝『三国志』を読んだ。頑張った。

中国の伝統的な歴史書というものはなかなか簡潔に書かれていて、そのために注釈の作業が重要になるなどという話も聞いたことがある。これは素人の想像なのだが、この漫画で諸葛孔明以外の人物が非常に愚かに見えるその愚かさは、『三国志』原典の簡略さに対するある種の注釈なのかもしれない。

何はともあれおもしろく、戦争を描くに現代となっては抑制的な描写もなかなか良く、60巻もあれば登場人物に対する愛着もわき、誰が命運尽きるのも哀しいものがあった。

4/2 寝不足
風が騒がしく眠たい朝だった。我が家は風が吹くとひどく揺れるし騒がしい。

春眠不覚暁
処処聞啼鳥
夜来風雨声
花落知多少

孟浩然「春暁」の「春眠暁を覚えず」は、暖かく心地よくつい寝過ごす、といった解釈が一般的で、漢詩の解釈だから深遠な何かによってそのような解釈になっているのだろうと思うのだが、しかし、もっとシンプルに「風雨の声」による寝不足のせいといった可能性はないのか?

などと考えさせる眠さである。

4/3 ほぼ日記
「ほぼ日記」とはじめから予防線を張った書き始め方をしたのだが、続けてみるとやめにくいものである。書くことがなくても書いてしまう。しかし、「ほぼ日」というのは、正直、さすがにキャッチーなネーミングだよなぁ。

「良い天気だねぇ」
「良い天気なんですけどね」

職場での会話。職場では「オンライン授業」と称して資料やワークシートや動画の配信が検討されているが、それは「授業」だろうか。双方向性のないものを、「授業」だと感ずることができない……。

Amazonプライムビデオに「映画 すみっコぐらし とびだす絵本とひみつのコ」が!! 劇場で観た直後にこんな記事を書いた。

4/4 散文的
筑摩書房のキャンペーンに負け、『思考の整理学』を読み始めた。曰く、学校は散文的な人間を生み出してしまう。まったくそのとおり。私も日々散文的になっていくし、そういう意味でも、昨年度の詩作の試みは本当に良い仕事だったと思う。学校には詩が足りない! そういえば『イン・ザ・ミドル』にも詩の読み書きの指導の話があった。伝統と言ってしまえばそれまでだが……。

4/5 何がいつまで許されるのか
何がいつまで許されるのか、わからない日々。

家で『ボーダーライン:ソルジャーズ・デイ』を観た。最近は家で映画を観ようとしても暴力とセックスなものしか観ることができない。エンタメ映画の、散文的な暴力とセックス……。いや、普通におもしろかったのだけど。もちろん演技ではあるのだが、プロ感のある所作や立ち居振る舞いをみるのはおもしろいものだ。

4/7 書き損ね
昨日はついに書き損ねた。なんせ気づいたら寝ていて気づいたら今日だった。

入学式。なんとか、というか、中止にすることもできず、というか。休校対応に追われる日々。休校対応に追われ日々出勤している我々は、我々自身が感染することを想定できていないのだろう……。

とはいえ生徒のいない学校は牧歌的でもある。

4/8 視野と視力
緊急事態だそうで、相変わらず出勤しているのだが、休校期間の延期が決まった。

Google Formsで解答を集めて、それをもとに解説動画を作ってみようかなどと思っている。iPadで音声と画面の録画ができるようなので、本文と学習プリントと音声でやってみようかなと。私の個人的な信念によって、ICTは、必要と感じない限りは用いずに授業をしてきたのだが、こうなっては仕方なく、いろいろと準備をしている。準備をしながら思うのは、学校というものは動きが重いなぁということで、そうではない学校もあるのかもしれないが、Google Formsを使うなんて簡単なことでさえ、あれこれ説明しなければならない。とはいえ自分の担当クラスだけ突っ走るわけにもいかず。

教科書で内田樹「胆力について」を読む。一言でまとめれば、知性の本質は能動的に驚き、受動的に驚かされない能力にある、といったところか。ロラン・バルトに元ネタがあるようだが、文章自体はさておきこの発想はおもしろい。あれは何々だ、と言えてしまえる知性ではなく、あれは何だろう、と思える知性。無論、これにはデータベース的な広い知識も不可欠なのだろうが、Google Lensを向け名前を知って終わりではない、歴史や関係、可能性といった遠さに向けられる「視力」とでも呼べようか、そのような知性。

4/9 会議は踊る、されど進まず
あまりにも会議と会議の合間が暇なので英語の勉強を始めた。たまに英語の記事を読むことがあるのだが、語彙が失われているのをひしひしと感じ。

授業動画の配信、著作権の問題にぶつかる。授業で著作物を使用することはもちろん許されているのだが、メールで送ったり、ネットで配信したりすることは許されておらず、近く補償金を支払えばOKということになる予定だったらしい。前倒しで今年は大丈夫ということになるようなのだが、それも来月からのようだし、やろうとすると案外難しいものだ……。

なんとなく憂鬱。雨のせいか。

4/11 Am I my safest sex partner?
会議ばかりの一週間だったが、少しだけ生徒とも会えた。次は5月だが……。

You are your safest sex partner.

https://www.gizmodo.jp/2020/04/nyc-health-dept-guide-sex-and-coronavirus.html

4/12 コロナウイルスの週末に歌集を読む
布団から手の届く本を何冊か恋人とぱらぱらめくる。

二冊の歌集を手に取る。一冊は萩原慎一郎『滑走路』、一冊は笹井宏之『えーえんとくちから』。たまたまどちらも若くして亡くなった歌人による歌集で、どちらも本当に良いものなのだが、萩原の歌は直球で、純粋で、10代、20代前半の感情が溢れている。笹井の歌は、巧みで鋭く、情景を思い描かせる。たとえば笹井の有名な、

「はなびら」と点字をなぞる ああ、これは桜の可能性が大きい
は、点字をなぞる指先を読者に想像させると同時に、その歌の場面に実際にはない、彼(女)の脳裏によぎったであろう桜のはなびらの色、繊細さ、匂い、春の暖かさを読者に想像させる。二重に情景が詠み込まれている、とでも言えようか。

そんな話をしながら、コロナウイルスの週末を過ごす。風は強いが美しい春の日だった。マスクをつけて町を歩き、人のいない公園の清々しさなんかを想像する日々。

4/13 仕事がない、中島敦がない
午前中で仕事が済んでしまうのだが、年休を取るのはなんとなく癪にさわるので、本を読む(研鑽する)日々。くつろげぬ椅子だが、明日以降もじっくり本でも読んでいようかなと思っている。自宅待機と言われない限りは……。

未だ読み終わらぬ『思考の整理学』を読む。「つんどく法」という節に、特定分野に関して読む本をすべて積み重ねて、それから一気に読む、といったことが書いてある。これは、ノートを取りながらゆっくり読んでは時間がかかるし忘れていく、それよりも短期間で、記憶の新しいうちに読み、頭の中で整理した方がよい、といった発想からくるものなのだが、納得。

中島敦「山月記」の研究をしようかと思い、それには短編集『古譚』を読まなければと思い、『古譚』の短編すべてを収めるちくま文庫の『中島敦』を手に入れようとしたのだが、Amazonに在庫がない。それどころか、「山月記」を収めた本も大方在庫がない。全体として本の在庫が減っているのか(最近、全般として品切れになりがちな気がする。書店の休んでいる影響だったりするのかしら)、私のように暇だからいつもより厚く教材研究してみようかなんて教員がいたのか、コロナ禍に中島敦が聞くのか、わからないが……。

4/15 線上で
Google フォームで生徒の送信した時刻を見ることができるのだが、一番遅いもので2:49。別にいいのだが、部屋の個人化、暇つぶしの個人化、そしてオンラインツールの進歩、ますます夜が更けていく。

ついに自宅で働けることになった。自宅で働くぞ!

書店で『方丈記』『ペスト』を購入。ミーハーなので。

4/16 二〇〇字
現代文はどうしたらできるようになるのか、と生徒が質問してきた。要はどうすれば現代文のテストで点数がとれるのか、ということなのだろうが、点取りテクニックの話をしてもおもしろくないので、たまたま読んでいたはやみねかおる『めんどくさがりなきみのための文章教室』に書いてあった「一日二〇〇字以上の日記を書く」というトレーニングをすすめてしまった、その手前、私がサボるわけにもいかず、これくらいで二〇〇字か、とりあえず書く。

4/17 政治についてのつぶやき
政治的であることを忌避する人間に限って、まさに政治に過ぎないものを両手を広げて歓迎するものである。

あらゆるところに政治性があり、政治性がないと感じられるとすれば、政治性が巧妙に隠蔽されているか、あるいはあまりにも政治的であることを疑わなければならない。

政治を回避しながら生きる生き方もあるのだろうが、そのような生き方は容易に政治性を帯びる。政治を回避しようとすればするほど、鋭い政治眼をもたなければならない。

4/18 嵐の前に
退屈なのかもしれない。書くようなことは何もないが、それでも、書き始める。

最近は休日は他に様々なリスクを負って会う人もなく、恋人とだらだら一日を過ごしている。録画していた『トイ・ストーリー』を見る。さすがに退屈せずに見られる映画。多少仕事もした。主にメールの返信。

静かで穏やかな日々が続いているが、かつて心理学の教授に聞いた話によれば、普段以上の幸せもまたストレスになるのだといい、であれば、普段以上のこの穏やかさもやはりストレスになっているのだろう。何となく焦燥感もあり、天気のせいもあって気分の落ち込む日もあり。この数ヶ月のように上の決断がぎりぎりであれば、また急激に仕事も忙しくなるはずで、その落差に戦々恐々としながらも、嵐の前のような、静かで穏やかな日々。

4/19 オンライン授業ができない理由
高校でZOOMやGoogle hangouts meetなんかを使った双方向でリアルタイムなオンライン授業ができない理由をだらだら考えてみた。「できない理由」を探さずにまずはやってみようなんて記事や意見を見た気もするが、「できない理由」があるなら「できない」というのが、私の想像力の限界だ。

①教員にICTに関する知識や使用能力がない。
特に指導力・発言力のあるベテランほどない。

②学校に環境がない。
情報端末が不足している。セキュリティでガチガチの細いLANと安物のタブレットPCでは配信にたえられない。

③生徒側に環境がない。
人によっては携帯の通信回線でしかインターネットに繋げられない。また、プリンターがなかったり、スマートフォンやタブレットやPCの所有状態もばらばらだったり、得られる情報の量や質に差が出る。

④差を生めない。
③とも繋がる話で、生徒によって得られる情報の量や質に、生徒自身の努力ではどうにもならない差を生んでしまうことを、現場は忌避する(その良し悪しはわからない。私は良いことだと思っている)。

⑤休校がいつまで続くかわからない。
今のところ、2020年5月6日までということになっている。その日程で動いている。「オンライン授業」は単位数に入らないことになっており(出欠席も取れない、評価もできない)、あくまで5月6日からスムーズに授業を始めるための補助でしかない、という扱いになっている。またたとえば一月ずつ休校がのばされるような形では、いつまでたっても「補助」である。

もちろん、課題の提示・回収や、一方的な解説や、質問への解答なんかはできている。しかし、教員‐生徒や生徒間の対話は消えてしまったし、生徒の思考の見取りも困難になってしまった。

4/21 自転車を買う
職場用に自転車を買った。はじめは商店街の自転車屋で新品を買おうとしたのだが、老夫婦の出す一番安い自転車が30,000円で、やむなくリサイクルショップで15,000円で購入。ちょっと汚れてるくらいなら、相当に金に余裕がなければ、あるいは相当な付加価値がなければ、これは、リサイクルショップで買ってしまう……。

4/22 解説動画を作ってみた
髪を切った。皆コロナウイルスの話しかしていない。束の間のリスク。

解説動画を作ったが、まあ疲れた。聴衆の反応がないので滔々と話し続けるのだが、息が続かない。聴衆がいるときよりも言い間違いが気になる。はぁ……。

解説動画なのだが、iPadの録画機能で作ってみた。Goodnotesにプリントを入れ、白紙のノートをボード代わりにして、それぞれにApple pencilで書き込みつつ、しゃべる。動画自体は作れるのだが、そもそもうまくしゃべれないのと、映像として残ることを意識できないのとで、なかなかひどいものができあがった。そもそも字も下手だし。著作権云々で教科書本文を映すこともできず、国語でこれではちょっと厳しい(国はちょっとは動いているようだが)。ともかく不慣れなことはするものではない……。

4/26 酒を飲まない
Zoomでオンライン飲み会したり、居酒屋のお弁当を食べたり。インドアな人間には、飲み屋に行くより気楽で良い。下戸な人間には、飲まずに済むし、飲みたい奴は飲めばいい。街の居酒屋は大変そうな様子であったが……。

4/27 書く者の孤独

The person who writes books must always be enveloped by a separation from others. That is one kind of solitude. It is the solitude of the author, of writing.

この言葉がマーガレット・デュラスの言葉だと知った(『Writing』)。水村美苗『私小説―from left to right』に教授の言葉として似たようなこと(”loneliness is the very condition of a writer”)が書いてあったのだが、元ネタはここ、なのかもしれない。書く者の孤独について。

私小説について検索していたら市川拓司に『私小説』という小説があること、彼が発達障害であることを知った(『ぼくが発達障害だからできたこと』という本も書いていた)。発達障害と書くこと……興味深い(あるいは、発達障害と孤独、なのかもしれない)。市川拓司、また読んでみようかな。

4/28 オフラインを再現する?
ブログに「オンライン授業についてのメモ」を投稿した。オンライン授業は、オフライン授業の再現を目指さなくてもよい/目指すべきではない、といったことを思い。

とはいえ、学校でのオンラインの学びの試みには、徒労感がある。どうしても、対症療法だし、対症療法以上を目指す雰囲気ではなく、また対症療法以上を目指す必要もあまりないように思えてしまうからだ。今後はどうなるかわからないけれども……などと、つれづれなるままに考えている。

しかし、オンラインの技術、サービス、アプリケーションは、多くがオフラインの再現の思想に依ってもいるようで、オフラインの再現もまた、本質的なことなのかもしれない?

4/29 休日だったようだが
今日は休日だったようだが……。

コロナ禍によって明らかになったのは、私に足りないものは時間などではなく、ともすれば足りないものなど何もない、あるいは永遠に何もかも足りない、というようなことだ。

何もしてねえ。

とはいえG.W.後は多少忙しくなりそうな気がする。

4/30 『土佐日記』再訪
再訪というほど訪ねたこともないのだが、あまりの暇さ、ではなく充実した教材研究の一環として、Google Earthとか使って、『土佐日記』についてブログ記事を書いた。しかしまたブログ記事である。noteに日記として書いていたら長くなったのでブログにしちゃおうというパターン。しかし、ゴールデンウィーク明けからは、多少忙しくなりそうである。平常の仕事に耐えられるのか、俺は……。

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Jul 31

信じる/ない——今村夏子『星の子』

2020年7月31日 朝霧

今村夏子『星の子』

「うそいわないで」
「うそじゃない。容器の裏引っくり返して見てみろ。おれのサインが入ってるのは中身全部水道水だ」
 母が段ボールの中から一本取りだし、容器を逆さにすると、そこにはマジックで大きくゆ(まるに囲まれたゆ、引用者)と書いてあった。
「帰れーっ!」
 父が悲鳴のような声を上げた。そのときはじめて父の怒鳴る姿を見た。顔も目も真っ赤になって、わたしは父が大声で泣きだすのではないかと思った。

落合さん夫婦の耳に入らないわけがない。知らないわけないのだ自分の息子がしゃべれることを。そしてひろゆきくんも、自分の親が知らないわけがないことを知っている――。
 ふすまの向こうで、父と母がささやくような小さな声でお祈りのことばを唱えはじめた。

信仰の一つの在り方を精密に描けているように感じられる。つまり、醒めた目で、本当にはそうではないと知っていながら、心の底からそうであると信じているような。信じたいけど信じられないとか、表面上信じているとか、そういうのではなく、相反する視線が同時に向けられるような、そんな心理の在り方。そしてこれは、信仰だけの話ではない。主人公と高校生の姉まーちゃんが、「好きな子」についてこんな会話をする。

「どんな子?」
 当時はエドワード・ファーロングへの熱も冷めて、秋山くんのことを好きだった。
「背が高くて、サッカーがうまくて、歌がうまくて、さか立ちができる人」
「へーかっこいいね」
「まーちゃんは」
「いるよ」
「どんな人」
「背が低くてサッカーできなくて歌がへたくそで、さか立ちもできない最低の人」

 「最低な人」——まーちゃんは、おそらく、彼が最低の人だと、醒めた目で見ながら同時に、愛してもいるのではないか。信仰や恋愛は、かくも不確実で儚く、しかし、このような心理の在り方はおそらく、人の生に欠かせないものなのだろう。

追記:
この小説は、先生の話のシーンが巧みだ。だらだらと書かれた鍵括弧を読み飛ばそうとすると、生徒である主人公と同時に、話を聞けと先生に叱られる構造になっている。これはうまい。
あと、帯のあおり文なんかは結構暗い感じなのだが、なかなか明るく気持ちのいい小説だと、私には感じられる。

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