Jul 31

信じる/ない——今村夏子『星の子』

2020年7月31日 朝霧

今村夏子『星の子』

「うそいわないで」
「うそじゃない。容器の裏引っくり返して見てみろ。おれのサインが入ってるのは中身全部水道水だ」
 母が段ボールの中から一本取りだし、容器を逆さにすると、そこにはマジックで大きくゆ(まるに囲まれたゆ、引用者)と書いてあった。
「帰れーっ!」
 父が悲鳴のような声を上げた。そのときはじめて父の怒鳴る姿を見た。顔も目も真っ赤になって、わたしは父が大声で泣きだすのではないかと思った。

落合さん夫婦の耳に入らないわけがない。知らないわけないのだ自分の息子がしゃべれることを。そしてひろゆきくんも、自分の親が知らないわけがないことを知っている――。
 ふすまの向こうで、父と母がささやくような小さな声でお祈りのことばを唱えはじめた。

信仰の一つの在り方を精密に描けているように感じられる。つまり、醒めた目で、本当にはそうではないと知っていながら、心の底からそうであると信じているような。信じたいけど信じられないとか、表面上信じているとか、そういうのではなく、相反する視線が同時に向けられるような、そんな心理の在り方。そしてこれは、信仰だけの話ではない。主人公と高校生の姉まーちゃんが、「好きな子」についてこんな会話をする。

「どんな子?」
 当時はエドワード・ファーロングへの熱も冷めて、秋山くんのことを好きだった。
「背が高くて、サッカーがうまくて、歌がうまくて、さか立ちができる人」
「へーかっこいいね」
「まーちゃんは」
「いるよ」
「どんな人」
「背が低くてサッカーできなくて歌がへたくそで、さか立ちもできない最低の人」

 「最低な人」——まーちゃんは、おそらく、彼が最低の人だと、醒めた目で見ながら同時に、愛してもいるのではないか。信仰や恋愛は、かくも不確実で儚く、しかし、このような心理の在り方はおそらく、人の生に欠かせないものなのだろう。

追記:
この小説は、先生の話のシーンが巧みだ。だらだらと書かれた鍵括弧を読み飛ばそうとすると、生徒である主人公と同時に、話を聞けと先生に叱られる構造になっている。これはうまい。
あと、帯のあおり文なんかは結構暗い感じなのだが、なかなか明るく気持ちのいい小説だと、私には感じられる。

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Apr 30

Google Earthで紀貫之を追ってみる遊び——『土佐日記』

2020年4月30日 朝霧

暇つぶし、ではなく教材研究の一環として、Google Earthで『土佐日記』に登場する地名をチェックしてみた。そんなに凝ったものではないし、旅程は教科書や資料集なんかにも図入りで載っていて、特に新たな発見があるわけではないのだが、行ったことのない土地の様子を、しかも時代も超えて想像してみるのは多少楽しいものであった。個人的には、高知大学田舎にありすぎ、大阪大学大阪市にあるんじゃないんかい、といった新たな発見が。『土佐日記』に関しては、「松原」が二カ所あるのがおもしろいといえばおもしろいか? kmlファイルという謎のファイル形式でエクスポートできたので上げておく。こちら。Google Earth→プロジェクト→新しいプロジェクト→kmlファイルをインポートで開けるはず。

去年、『土佐日記』の教材研究をしてみて初めて知ったのだが、かの有名な冒頭の一文「男もすなる日記といふものを、女もしてみむとてするなり。」の解釈には異説があるそうだ。この文は伝聞・推定の助動詞「なり」と断定の助動詞「なり」の判別を覚えるのに都合がよいとされており、つまり、「すなる」が「するという」、「するなり」が「するのだ」で、ひらがな文学の創造のために貫之が女性に仮託して〜なんてのが、学校で習う『土佐日記』である。しかし小松英雄氏によれば、冒頭の1文は「男もじなる日記といふものを、女もじでみむとてするなり」であり、つまり男文字(漢字)でなされる日記というものを、女文字(平仮名)で試みよう、なんて意味になるという。そうなると後段の「ある人」は何だ、という話になってもくるのだが、これもなかなかおもしろいというか、すっきりしてしまうというか。この話は、混乱させてしまうだろうなぁと思い授業では話さなかったが、『古今和歌集』「仮名序」の筆者でもある貫之の平仮名への思いの強さが感じられるような。などなど、千年の古典なだけあって、『土佐日記』にはおもしろい話がつきない(『新古今和歌集』の藤原定家が臨書する話とか、文学者・定家の思いを想像すると熱い気持ちになる)。

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Apr 28

「オンライン授業」についてのメモ

2020年4月28日 朝霧

オンライン授業について。様々なアプリケーションやサービスが用意されているのだが。一つ思うのは、それらを使って、従来の授業をオンラインで再現しようとする必要はない、というか、そうしようとすべきではないのではないか、ということだ。

従来の、オフラインの授業は、オフラインの様々な困難による限界の中で行われていた。例えば、40人という人数の困難、一目に40人を見ることができない視覚的・空間的困難、一斉に上がる声を把握することの聴覚的困難、等々。オフラインの授業を、その限界も含めてオンラインで再現しようとすることによって、教員や生徒にとっては慣れた形式なので楽ではあろうが、無駄になるものや、失われるものもあろう。

これを感じたのは、どこで見たのか忘れてしまったがあるメディアで、都立高校での取り組みとして、オンライン会議システムを利用したリアルタイム授業が報じられていて、生徒の「挙手」を画面上で把握することのできる仕組みが紹介されているのを見たときだ。発問をして、「挙手」した生徒を指名し、解答を元に授業を進める。極めてオーソドックスな授業形態で、もちろん私も多用するけれども、この、発問に対する解答をクラスの中で公言したい生徒の中から1名を選び出す「挙手」という仕組みは、わざわざオンラインで再現しなければならないものなのだろうか? 

無論、緊急事態にあって、オフライン授業をオンラインで再現しようとする、それが可能である都立高校の人材や資金といったパワーは、称賛されるべきだろうが。

オンラインで授業を行わなければならない状況だからこそ、授業の本質が問われなければならない。あるいは、「授業」という形式さえ、オフラインの限界の中で必要とされるものであって、今、「授業」に代わって、「授業」でさえない学びがオンラインに行われるべきなのかもしれない。オフライン/オンラインを問わない、学びの本質を問う学びの哲学が現場に必要とされているのを、現場にいてオフライン授業のオンライン化を進めながら、ひしひしと感じている。

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Feb 11

「先入観」について(小松理虔『新復興論』の「福島県産品」問題に関連して)

2020年2月11日 朝霧

 先入観を持つことは良くないことだと気がついた。何とか先入観を持たず、誰とでも対等でありたいのだが、どうすればいいか——そのような問いに出会った。

 「先入観」が良くない結果を招くのは、どのような場合においてだろうか。例えば、何とかという土地にルーツを持つ人間にはこれこれこういう悪いところがあるから、付き合わない方がいい。A型の人間とは相性が悪いから、友達にはならない。この仕事は男性の方が得意だから、男性に任せた方がいい。例えばこういうとき、「先入観」は「差別」や「偏見」と呼ばれる。これらの「先入観」によって、人と人の出会いが阻害されたり、より相応しい役割が与えられなかったりするのだから、人と人の出会いやより相応しい役割を良いものとするならば、これらの「先入観」は、良くない結果を招いていると言える。

 一方で、「先入観」を持つことが、有用に働く状況を想起することもできる。例えば、ある工事現場で、ベテランの作業員が新人に「経験のないやつはこれこれこういうミスをする、気をつけろ!」とアドバイスし、結果としてそういったミスが起こらない。小さな子供の行動パターンに熟知した保育士は、予め子供の行動を制限することで、危険を回避する。もしかしたら、日本で生きてきた者には問題なくとも、そうでない人間にはどうにも回避できない修羅場を、事前の教育が避けさせるかもしれない。新人は、子供は、外国人は——こうした先入観は、では、良くないものだろうか。わたし自身、教壇に立てば、子供たちの躓きやすいポイントを予告したり、子供の避けるべき話題を避けたりしている。これもまた、子供とはこういうものだといった、「先入観」に他ならないはずだが、しかし、この「先入観」は、どうも持つべきものだとされているようである。それが、子供の可能性を潰している可能性もある。それでも、持つべきものだと、感じられる。

 後段で述べたようなものは、「先入観」とは呼ばれにくい。経験からくる予期、あるいは勘などと呼ばれるものだと思うのだが、しかし、経験から、あるいは前知識、情報から、ある個人の属性について、属性以上の判断をすることは、「先入観」に他ならないだろう。では、「差別」や「偏見」と、「予期」や「勘」は、どこがどう違うのか。実は、合理性、有用性の度合いでしかない。「先入観」を持つことが良くないことなのではなく、合理的ではない、有用性のない「先入観」が、良くないのである。

 こうなってくると、合理性、有用性が問われなければならない。100パーセントの合理性というものは存在しないし、ある者にとっては有用なことが、ある者にとってはむしろ迷惑になることもある。「差別」でさえ、小さなコミュニティの中で60年やそこらを生きる人間の一つの人生にとっては、合理的で有用な選択であり得る。だから、個人の感覚ではなく、社会における合意によって、合理性や有用性が判断されなければならない。

 小松理虔『新復興論』は、東浩紀の思想に共感するところの多いわたしには頷くところの多い本であったが、一カ所、ページをめくる手の止まるところがあった。福島県産品を口にするか否かといった問題についてである。

福島県産品を毒物扱いして「放射性廃棄物は福島県民が食べて応援すればいい!」などと言葉を発してしまえば間違いなくアウトだが、福島県産品を避けること、不安を持ってしまうことは差別とは言えないし、各々の選択は尊重するほかないと私は思う。(中略)だいたい、科学的には正しいが、その科学的な正しさ以外は許さないというような権威的な社会より、無関心や無知が存在しながらも、自由を謳歌できる社会の方が健全だ。当然、差別は悪である。それを大前提としたうえで、多様な選択を受け止めつつ、いかに広く情報を届けるのかを本書でも考えていきたい。

 ここでは、「放射性廃棄物は福島県民が食べて応援すればいい!」という言葉と、「福島県産品を避けること」の間に線が引かれている。ここでは「差別」は無論「悪」の「先入観」を意味し、前者は「差別」で、後者は「差別」ではないようである。しかし、これでいいのだろうか。

 投げかけられる「差別」の言葉は、端的に許されざる暴力だろう。しかし、では、「避ける」という行動は? 小松理虔はここでその線引きの根拠を示していない(ように見える)が、わたしには、そこに大きな差異を見いだせない。福島県産品が科学的に安全であるという前提に立てば、どちらも合理的ではなく、有用性もなく、共に福島県で産業に従事する者には良くない結果を招くものだからだ。

 もちろん、福島や差別の問題を語るにはわたしは不勉強に過ぎるのだが、「差別」と「非-差別」の線引き、この文章で用いてきた言葉を用いれば、合理的で有用な「先入観」と合理的ではなく有用ではない「先入観」の線引きは、「差別」は「悪」であるとの価値観を共有していたって、非常に難しい、ということは確かなようである。初めの問いに戻れば、「先入観」を持つことの善悪を、「先入観」それ自体によって判断すること自体が危険であると、まずはそう答えなければならない。

 ところで。「先入観」とは、どうも未来の予測である。とすれば、これを失うことは、人間に与えられた時間感覚から、未来の部分を失ってしまうことになるのではないだろうか。

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