Jan 04

morgennebel.netを捨てる準備

2021年1月4日 朝霧

morgennebel.netを捨てる準備をしている。ブログを振り返ってみると、2009年から独自ドメインを持ち始めてレンタルサーバーでブログをやってきたようなのだが、かつては持っていた、公開したものは公開し続けたいという欲望が消え、ウェブサイトのデザインに対する関心も消え、どちらからも幼稚な完璧主義を感じるが、今となっては、どちらも捨てざるを得ない。加えてちょっとしたきっかけもあり、次の更新はせず、はてなブログにでも移ろうかと考えている(予定のURL)。


古い記事は基本的に読むに堪えないのだが、しかし今でも稀に読者が訪れるような記事は移そうと思っている。古い記事を眺めていると、他人の書いたような文章で、しかし懐かしい人からのコメントがあったりして、不思議な気持ちになる。ほとんどの懐かしい人はもう私の書いたものを目にしたりしないのだろうが、一方で、今でもたまに交流のある人もいる。ありがたいものだ。昔はSNSで普通に生きていては関わりようのない人と関わることができて、楽しいものだった。

カテゴリー:挨拶.
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Dec 08

死者と語らう――夏目漱石『こころ』

2020年12月8日 朝霧

生徒たちの『こころ』の読解の様子を見ていると、案外、Kの自殺の原因を、「先生」=「私」による裏切りやそれに伴う失恋などではなく、K自身の信念にK自身が背いたことに置く。「教科書」どおり(?)信念に反して矛盾を抱えてしまったこと、その矛盾を厳しい言葉で指摘されたこと、そして信頼する友人による裏切りを原因と考えてきたものだから新鮮に感じられるのだが、確かに、Kの遺書の言葉を信用すれば、彼は自身の薄志弱行によって死んだのだ。

このような読み方の違いは、決して第三者にはなり得ない「先生」=「私」の語りからはそれ以上のことが読み取れないことに起因する。『こころ』は「襖」によって「私」とKの心の壁を、あるいは心の交流を象徴していると読まれもするように、コミュニケーション(の不全)をテーマとして読むこともできる。とすれば、死とは、究極的にコミュニケーションの不全状態である。死者は語らない。「襖」を開け、心を通わせることができない。死者しか知らない自死の本当の理由は、その死者にしかわからない。彼の遺すものも嘘ばかりかもしれないのだ。「教科書」的な読みは、Kの遺書を嘘として、「先生」=「私」の語ることを真実として読むことを前提としているが、その真偽は真逆であるかもしれないわけだ。他者とのコミュニケーションは常に不全性を孕んでいるだろうが、死者とは、究極の他者である。

と同時に、あるいは、死者とのコミュニケーションは、究極のコミュニケーションなのかもしれない、とも思う。死者の死の理由は、究極的には、わからない。だからこそ、「先生」=「私」は、その死の原因を自身に置き、Kの「黒」い影を背負って生き、終には自らも死を選んだ。Kが死んでしまったからこそ、「先生」=「私」に、まさしく幽霊の如くKが取り憑き訴え続けるのだ。「襖」は、開けられたままなのだ。それは、生者であった二人にはできなかったことだ。

死者は語らないことによって語る。Kは語らず、「永遠に静か」であるからこそ、「先生」=「私」に語り続ける。あるいは「先生」=「私」もまた、Kに語りかけ続けてきたのだろう。そして、「先生の遺書」を受け取った「私」もまた、「先生」に語りかけられ、語りかけ続けて生きるに違いない。

タグ:, , , . カテゴリー:小説・戯曲.
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Nov 10

「現代文単語/キーワード」に関する参考書について、今のところのベスト

2020年11月10日 朝霧

 私が高校生だった頃は意識したこともなかったのだが、世の中には「現代文単語」とか「現代文キーワード」とかいう参考書がある。Z会の『現代文キーワード読解』の初版が2005年で、これがかなり初期のものなのではないかと思うのだが、だとすれば、やはり私が高校生だった頃にはまだそれほど知られたものではなかったのではなかろうか(特に、片田舎の昔ながらの進学校には)……と思ったら、『MD 現代文 小論文』という「これまでの辞書とはまったく違う」やつが1998年初版だった。しかしこの本さえ、もう「現代文」の参考書としては古い……。説明するまでもなかろうが、内容としては、「現代文」の入試などに出題される「評論文」に頻繁に用いられる概念や、小説の読解に必要となる背景にある概念を説明している参考書だ。今では学校でも副教材として広く買われているようだが、おそらくこうした教材が生まれる前は、先生方が社会科学・人文科学の教養を駆使し、授業中に(生徒目線では)雑談的に繰り出される知識がその役目を担っていたのだろう。

 しかし、これら参考書がなかなか使えない。そもそもそれなりの読解力と最低限の知識がなければとっかかりがなさすぎて自学自習に向かないという生徒目線の問題はまだしも、社会科学・人文科学の教養を備える我々からすれば、それら参考書の説明は簡便で一義的すぎて、評論における幅広い・慣習的な用法に対応できない。そもそも「これが載ってないの!?」というものが多すぎる。例えば、今は「原理主義」のまともな説明をどこからも見つけられないし、「新自由主義」を満足できる程度に説明しているのは筑摩書房の『評論文キーワード』くらいだ(もちろん、すべてのこの類の参考書を見たわけではないが、結構見た)。筑摩書房『評論文キーワード』は斎藤哲也といういろいろと目にする人物が編著者としてクレジットされているが、結構なこの類の参考書にはそうした名前もない(『MD 現代文 小論文』には予備校講師に並び大澤真幸の名もあるが……)。

 というわけで、今のところは筑摩書房『評論文キーワード』がベストと感じている(しかも手元にあるものは改訂前のもので、最近改訂版が出ており、少なくとも悪くなってはいないだろう。ところでやはり、「現代文」の参考書であるからには、改訂され続けなければ困る)(しかしこの本には、タイトルのとおり小説の語句に関するページはない。必要ない、というのが私個人の感想だが……)。しかしこれも、最初に書いた生徒目線の問題もあり、扱いはなかなか難しいものである。

タグ:, , . カテゴリー:雑記・評論・まとめ.
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Oct 26

行き場としての死者とまだ生まれていない者――諏訪敦彦『風の電話』

2020年10月26日 朝霧

諏訪敦彦監督の『風の電話』を観た。広島の原爆の物語から始まり、父親のいない(おそらく死んでしまっている)高齢出産、性的暴力未遂、難民の物語(日本の入国管理の問題)、そして東日本大震災の傷へと繋がっていくストーリーは、社会的に過ぎ、荒削りに過ぎるようにも見え、モトーラ世理奈の荒削りな演技もあり全体としても荒削りな仕上がりと見えたが、モトーラ世理奈の周囲を固める俳優陣によってなんとか見られるものになっている。映画としての完成度はこのように感じたが、しかし、重い社会的テーマを織り込んでいるために、非常に、考えさせられもする。

原爆や、性的暴力や、「入管」の問題や、東日本大震災(故郷の喪失、家族の喪失、生きる意味の喪失)。これらは映画の中で、行き場のない感情として描かれていた。言い換えれば、誰かのせい、というようには描かれていなかった。それらは降りかかり、しかし誰かによってではなく(性的暴力でさえ、そこから助け出す男の方に焦点が移り、加害者たちは画面外に去り、思い出されることもない)、ただ哀しみを彼らに残す。ヒロインに自死の匂いが付き纏うのも、(単に彼女がモードなエモさを纏っているからではなく、)その行き場のなさが、自身に向かうからだろう。

考えさせられるのは、では、きちんと「加害者」に向き合うことが、では倫理的に正しいことなのか、ということだ。これは難しい。それは、法的な解決に繋がるかもしれない。しかし、それで済むことばかりではない。曖昧な言い方になってしまうが、「加害者」とは人である以上、「被害」と「加害」の関係の解消が、その解消だけで済んでしまうとは、限らない。

その行き場として映画に描かれたのが、おそらく死者の(そして、まだ生まれていない者たちの)空間だった。喪失を、傷を抱える彼らは、死者や、胎内に宿った命に、語りかける。

私たちは、あの日から、いろいろなことに怒りを表したり、希望を抱いたりしてきたけれど、実は、行き場のなさを、見出された「加害者」や「被害者」に様々な形で向けていただけなのではなかろうか。法的な解決(あるいは、「実際的」な解決かもしれない)は無論重要だけれども、きっと、それだけでは済まないから、終わらないのではないか?

映画で彼らは、死者や、まだ生まれていない者に語りかけるが、もちろん返答はない。しかし、それが重要なのだろう。彼らは物を言わない。しかし、生きている者は、死者を、まだ生まれていない者を、思い出し、思い描くことができる。作中には、自死を匂わせるヒロインに「死んでしまったら、誰が家族を思い出すのか」といった台詞があった。ここに描かれた生きることとは、死者に、まだ生まれていない者に、語りかけることなのだ。

そして、返答はない。そのことの意味とは、生きている者が、返答を求めて語りかけ、語ることが、そのまま、物語(ストーリー)となっていくことである。大槌町にあるという「風の電話」で「行方不明」の家族に話しかけるヒロインは、「元気?」などと問いかけながら、もちろん答えはなく、一人語り続け、やがて、生きることを語る。生きる、という結末へ、自らを物語り、物語をその結末へ、導くのだ。

これは、堅固な宗教を持たない生者が、喪失と向き合う生き方の一つの方法だろう。いや、あるいは、喪失とは、堅固な宗教などではどうにもならないような、極めて個人的で、個人的に乗り越えなければならない、重大な問題なのかもしれない。


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