Sep 20

私的に哲学を読む試み 序文

2017年9月20日 朝霧

 わたしは哲学の素人である。大学に入ってから今まで、何冊か(も?)入門書や概説書を読み、現代思想なんかをつまみ食いしてきたこともあり、むしろ一般的素人よりも好ましくない状態の哲学の素人であるかもしれない。何とかもう一度、最初から、哲学を始められないだろうか……そのようなことを考えるようになったのはここ数年のことだが、最近、例えば中島義道『哲学塾の風景』を読んで自分がいかに適当に哲学書を読んできたかを思い知ったり、竹田青嗣が苫野一徳に課したという「一年で哲学書六〇冊、一冊につき三万字のレジュメ」修行の話を『子どもの頃から哲学者』で読んで哲学の「勉強」がどういうものなのかを思い知ったりしたことで、より一層そうした思いが強くなったように思う。

 わたしの人生に、哲学というものが何か良いものをもたらすことがあるだろうか。上に挙げた二冊を読んだのは、丁度軽くない病気で入院している時だった。すぐさま死ぬような病気ではなかったが、死のことばかり考えていた。良いものはすべて失われていくと、そうしたことばかり考えていた。いくらか回復して退屈を感じるようになると、せっかくだから厚い本を読んでおこうと思いドストエフスキー『悪霊』レヴィ=ストロース『悲しき熱帯』デリダ『マルクスの亡霊たち』を読んだ。そうした本を読む間、脳の疲れを取ろうと読んだのが『哲学塾の風景』『子どもの頃から哲学者』であった。どれも読んでいればおもしろかったが、ふとしたときにすぐ先にある死の影がちらつき、本当は死というものは常に等しくあらゆる人間のすぐ先にあって、それは入院する前のわたしにとってもそうだったわけではあるが、死までの暇つぶし、といったような言葉が幾度も浮かんだ。入院する数日前に読んだ本にこんな一節があったのを、ベッドの上で思い出した。

それから長い年月を経て彼は図書館の焼け焦げた廃墟の中に立ち水溜まりに浸かっている黒い書物の数々を眺めた。書架はみなひっくり返されていた。何千列にも並んでいた嘘に対する憤怒。彼は一冊を手にとり水を吸って膨らんだ重いページをめくった。彼はどんな小さなものの価値も来るべき世界に基礎を置いていることを思ってみたことがなかった。彼は驚かされた。これらのものが占めていた空間自体が一つの期待であったことに。

コーマック・マッカーシー『ザ・ロード』黒原敏行訳

ここではまさに書物の価値が語られている。その価値は「来るべき世界に基礎を置いている」。では、来るべき世界を待たぬ者にとっては? そんなことを考えた。

 わたしの人生に、哲学というものが何か良いものをもたらすことがあるだろうか。中島も苫野も、哲学によって絶望から救われた、といったようなことを語る。しかし、わたしはそのようなことを少なくとも意識的には期待してはいない。わたしの人生に、哲学というものが何か良いものをもたらすことがあるだろうか。そのようなことはない、と自答する。ではなぜ、もう一度、最初から、哲学を始めようと思うのか? 今のところそれは、そこに、良い悪いを超えた、価値などというものを超えた何かがあるような、ふわっとそんな気がするためである。

 具体的には、まず古典的なテキストをリストアップする。そして、基本的には年代順に読む。「レジュメ」を作ったり感想を述べてみたりする。意志の弱い人間であるし、それほど期待があるわけでもないから、この試み――「私的に哲学を読む試み」は、この序文で終わりかもしれない。特に期限を設けるつもりはないし、そうして時間をかけていると心変わりするのが意志の弱い人間の常だ。

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Aug 11

可能性・辻褄の合わなさ・暴力――範宙遊泳『その夜と友達』観劇メモ

2017年8月11日 朝霧

範宙遊泳『その夜と友達』はいくらかは人間的だった学生時代を経てクソみたいな大人になりつつある日本の私たちにとにかく刺さる。差別発言とかしちゃう人が大統領になって大丈夫なのかなどと言っていた過去(2017年頃)と、6色の造花を配っていたら逮捕される未来。過去は化石のようだが、未来は近い。

舞台上の田町和範(武谷公雄)が言うには、どうも私たちは「未来の友人」らしい。彼は「こちら側」であり客席の私たちにも、「向こう側」の壁に映し出される映像の中の友人・三枝夜(大橋一輝)にも語りかける(範宙遊泳の映像の使い方は相変わらずエグく、よくわからないが感覚的には「不気味の谷」に近いものがあるような気がする)。未来である現在と過去を行き来する彼は第四の壁の此方と彼方を行き来するかのようでもあるが、やはりそこにはカーテンが掛けられる。

彼らは繰り返し辻褄の合わなさを強調するが、辻褄の合っていないのは場を共有していながら第四の壁によって遠く隔てられた彼らと私たち(映像の中の夜のように、私たちが彼らに語りかけることはないし、厳密には彼らは私たちに語りかけてなどいないだろう)でもあるだろう。しかし、辻褄が合っていないにも関わらず、私たちは彼らの物語に胸を痛め、6色の花を配って逮捕されるという架空の未来の事件にリアリティを感じることができる。

辻褄が合わないことは可能性であるようだ。田町は、可能性という言葉をポジティブに使いたい、といったことを言っていた。可能性と同じように、辻褄が合わないということも、ネガティブでもあり得るしポジティブでもあり得る。最後のシーン、夜の部屋で、夜と田町とそこにいるはずのない(結婚して子供がいる)滝沢あん(名児耶ゆり)と「辻褄が合っていない」のに場を共有し、言葉を交わし、酒を飲み交わすことができた、その辻褄の合わなさは間違いなくポジティブなものである。

そして、可能性、辻褄の合わなさは、おそらく暴力にも近い(それらすべてに、ポジティブな形態(LOVE)とネガティブな形態(HATE)があり得る)。適当なことを言えば、範宙遊泳の演劇はポジティブな暴力だろう。

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May 02

「ナワバリ」の神父と日本人――『哭声/コクソン』

2017年5月2日 朝霧

 素直にサスペンス・ホラー・エンターテイメントとして楽しめば良いのかもしれない。しかし、あえて、つまらない考察を試みたい。ナ・ホンジン監督の映画『哭声/コクソン』についてである。
 「コクソン」は、叫び声を表す「哭声」と「谷城」という地名の読み方を掛けたタイトルなのだろう。舞台は谷城という田舎の村であり、主人公は警察官で、惨殺事件を調査しているうちに自分も巻き込まれていく、といったストーリーである。結果的に、悪霊の取り憑いた人物(『エクソシスト』的な描写といった感じ)が事件を起こしていると主人公たちは判断し、韓国土着(風)の祈祷師と共に、その悪霊を退治しようとするが……結末は後に語ることになるだろう。

1 役立たずの神父

 この映画で悪霊と目される存在は、國村隼が演じており、役としても日本人で、「日本人」と呼ばれるのだが、キリスト教的な、キリスト教的世界観において想像される悪霊のようである。裸(褌一枚)で生肉を直に食らう姿は獣的だし、妖しげな儀式を行ったり、カラスを用いたり、取り憑かれたものはヒステリー状態となって、身体を異常に仰け反らせたりする。さらにはゾンビ化する人物も現れる。映画の冒頭にルカの福音書からの引用もあったが、『哭声/コクソン』は、ある程度の部分、キリスト教的世界観にのっとった映画なのである。知られているように、韓国においては、近世・近代に入り込んだキリスト教が一定の勢力を持っており、この世界観自体に違和感はない。
 映画『エクソシスト』でキリスト教的悪霊祓いを行ったのは二人の神父であった。この映画でも同じことが期待されるが、まず俗人たる主人公たちが頼るのは祈祷師の男である(韓国の宗教や儀式には詳しくないが、彼の悪霊祓いは何か伝統的な形式なのだろうか、エキゾチックな創作なのだろうか。まあ、後者という気がするが……)。そしてその後で神父に相談することになるのだが、あろうことか、神父は、そうした非科学的なものを否定し、病院を勧める。もちろん、悪霊に医学は効きようがない。最も活躍すべき神父は、この映画では、期待に反してまったくの役立たずなのだ。

2 「ナワバリ」に入り込む「日本人」

 入り込んだキリスト教、と先に書いたが、「日本人」もまた、外部から、谷城に入り込んだ存在に違いない。國村隼演じる「日本人」は、山奥の孤立した一軒家に住み、パスポートも持っているのだが、そこで妖しげな儀式を行い、基本的には、主人公たちによって悪霊と目される(彼は観る者にもかなり不気味に映る。おそらくは韓国人/語と日本人/語の近さと通さが違和感となり、不気味となるのだと思うのだが、韓国人が観れば、より不気味なのではないだろうか?)。祈祷師は彼は「死者」なのだと言いもする。主人公たちの会話によれば、彼が現れてから、村では奇妙な事件が続いているらしい。彼こそ悪霊であると考えた主人公たちは、彼を「ナワバリ」から追い出そうと、彼の飼い犬を殺したり、集団で武器を持って襲撃に行く。
 さて、おもしろいのは、「ナワバリ」という言葉である。どうも、韓国語においても、ほぼ「ナワバリ」という音で、日本語の「縄張り」と同じ意味を表しているようだ。「ナワバリ」に入り込んだ「日本人」、「日本人」を「ナワバリ」から追い出すという状況にあって、そもそもその「ナワバリ」という言葉が日本語由来なのである。異物たる日本――日本人/語は、肉と骨を持った「日本人」一人だけでなく、その土台にまで食い込んでいるのだ(洋服、その他諸々、言うまでもあるまい)――どこか暗示的である。

3 祈祷師と謎の女

 入り込んだもの――キリスト教と日本に対する者として、男の祈祷師と、謎の女がいる。祈祷師はどこかエキゾチックな土着性を感じさせる存在である。祈祷師の行う悪霊祓いの儀式も、いかにもアジア的といった感じのするものである。謎の女は、彼女もまた韓国人のようだが、どこか透明な存在である。つまり、奇行をのぞけば、見た目としてはごく普通だ。まじないを行う力があるようだが、その力の行使の仕方もほとんど描かれない。
 おもしろいのは、この二名もまた、対立しているように見えるところだ。謎の女は祈祷師に嘔吐・吐血させる。祈祷師は主人公に「女を信じるな」と言う。同じ朝鮮半島人で、外から入り込んだわけでもなさそうな二人の対立――どこか暗示的である。

4 日本人/悪霊/聖痕

 映画は最終的にはほぼバッドエンドで終わる。キリスト教的悪霊に対して土着的な祈祷・まじないで挑んだ、そのミスマッチ故ではないかという気もするのだが、その最終盤に、主人公の仲間の一人(キリスト教会の助祭)が洞窟へ、悪霊と目されていた「日本人」に会いに行く。そこで男はいかにも悪霊じみた、目が赤く、皮膚が黒く、牙があり、骨張っていて……といった姿に変身するのだが、カメラはその手の聖痕を捉える。聖痕とはもちろんイエス・キリストの磔刑の際についた傷であり、また信者の手に奇跡として現れることがあるという傷だが、その傷は、もちろんキリスト教の立場から言えば善きものだ。そうでない立場から見れば罪人・死刑囚の証とも言えそうだが、ともかく手にそのような傷の現れている彼は、単純な悪霊であるはずがない。後に書くように、この「日本人」は実は物語における善の存在である可能性もある。しかし、正しく悪霊である可能性もある――ここにきても、「日本人」は善悪を判断することの不可能な存在なのだ。
 これまで、暗示的、暗示的と書いてきたが、もちろんこれは、朝鮮半島史の暗示として読み取ることができる、という意味で書いている。朝鮮半島に外部から入り込んだもの、朝鮮半島の朝鮮人同士の対立、こうしたモチーフは、現実の朝鮮半島の歴史と今ある社会的状況を連想させる。もちろん、監督なり脚本家なりがそれを狙っている、と言うつもりはない。無意図であるとすれば、韓国で映画を撮るときに、意図せずともそうした外部が映り込むということであるが、どちらでもいい。
 では、「日本人」=聖痕を持つキリスト教的悪霊の、善悪を判断することの不可能性、あるいは善悪の両義性は、どのような歴史を、社会的状況を、暗示していることになるだろうか。

5 解答はない

 しかも、「日本人」=悪霊が悪者だった、ということで、すべてのシーンを納得できるわけではない。例えば、ゾンビ化した人物が主人公たちを襲う前、「日本人」はその人物に対して何か儀式を仕掛けていた描写があり、その人物はその儀式から脱出したように見える。そして彼が主人公たちを襲う際には、「日本人」は物陰からその様子を真剣な表情で見ており、ゾンビは突如苦しみだして死ぬのだが、主人公たちの物理的攻撃にはまったくダメージを受けた様子のない彼を殺したのは、物陰から覗いていた「日本人」である可能性があり、そうだとすれば、それは、主人公たちを助ける行動だ。結局、祈祷師の言うように、呪いをかけていたのは謎の女であり、日本人は善だった……そういう可能性もある。
 そして、他の可能性も、いくらでも考えられる。「日本人」も謎の女も主人公の娘(すばらしい演技力である)の持ち物を持っていた。被害者の写真は、決して確実な証拠ではあるまい。「惑わされるな」と謎の女は言うが、その言葉さえ誘惑の言葉なのであり、主人公も、観る者も、惑うほかないのである。

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Apr 28

井の頭公園の/のような映画――瀬田なつき『PARKS パークス』

2017年4月28日 朝霧

 橋本愛演じるヒロイン「純」の元へ、永野芽郁演じる準ヒロイン「ハル」がやってきて、かつて純の住んでいた部屋に住んでいたという写真の女性のことを教えてほしいと言う。成り行きでハルは純の部屋に泊まり込むことになり、その女性の孫である「トキオ」(染谷将太)と出会い、やがて女性の遺したオープンリールを手に入れる。その50年前のオープンリールには、井の頭公園で演奏された歌が録音されていたが、データが破損しており、その曲を完成させようと純とトキオが奮闘する――物語のあらすじとしてはこのような映画だ。

 製作背景は知らずに観た。ホームページを見れば色々と書いてあるのだが、そのホームページのタイトルを見ると「井の頭公園の映画『PARKS パークス』」とある。またそのホームページには「さまざまな人々が忘れがたい時間を共有し、やがて去っていく公園のような映画」という表現がある。制作側によれば『PARKS』は、橋本愛と永野芽郁(天使)がひたすらかわいいだけの映画ではなく、井の頭公園の/のような映画らしい。なるほど、そう言われると確かに、と思わせるところがこの映画にはあった。

1 井の頭公園の映画

 まず、この映画は「井の頭公園の映画」である。映画について、自分に語る資格があるのかは疑問だが、やはりその始まりは、おそらくは現実の記録と再生を目的としていたのではなかろうか。そして井の頭公園の開園100周年を記念する映画でもある『PARKS』は、井の頭公園を記録し、再生するものであるという意味で、まさしく「井の頭公園の映画」なのだ。主人公格の三人は、井の頭公園、吉祥寺の街の各所各所を走り回り、踊ってまわる。三人は三人でオシャレでかわいいのだが、そのオシャレさも中央線沿い・吉祥寺のイメージにマッチしている。引きで撮られるシーンも多く、通常は背景である空間を妙に意識させられるその映像は、どこか名所案内・PRめいて見えさえするのだが、「井の頭公園の映画」としては、これが真っ当な撮られ方なのだ。もちろん、それぞれの俳優にフォーカスがあたるシーンも少なくない。しかし同様に、井の頭公園・吉祥寺の街もまた、三人と並ぶ主役なのである。

 また、井の頭公園は、ビデオカメラで撮影されたことで、映画『PARKS』として記録され、再生されるわけだが、映画の物語においても、記録される。ラッパーであるトキオのアイデアで、公園の音がサンプリングされるのだ(ラップ文化に詳しくなく、厳密にはサンプリングではないのかもしれないが、音楽に用いようと公園の自然音を録音していた[追記:ハスキーさんいわく「フィールドレコーディングの方が一般的かな」とのこと。どちらにせよよくわかりません!])。本作では、例えば冒頭に、自転車で井の頭公園を走る橋本愛を映しつつ、彼女の声で、物語を春から始めたい、桜のシーン終わらせたいといった物語の外側の台詞があったり、サンプリングのシーンでカメラにマイクを当てたり、映画の物語においてハルの書いている小説と映画の物語が入り混じったりと、撮影/映画内物語/映画内物語内小説の枠を越境するような演出があったが、三人の行ったサンプリングもまた、この映画の公園の記録という側面をメタに表現していた。そういえば、映画には50年前に公園で録音され、データが破損し完全には聴くことができないオープンリールも出てきた。この映画が記録の側面を持つものであると同時に、記録は映画の物語において主題化されてもいた。

2 井の頭公園のような映画

 そして、「井の頭公園のような映画」である。ではこの映画のどこが公園のようであったのか? 「さまざまな人々が忘れがたい時間を共有し、やがて去っていく公園のような」とあるように、この映画自体が、吉祥寺や井の頭公園を愛していたり、バウスシアターを愛していたりした人々の縁になるという解釈もできるだろうが、逆に、映画における井の頭公園のあり方が、映画じみているのだと、そういう見方もできる。映画の物語において、50年前の恋愛が描かれる。それはハルの夢?(想像? 小説?)の中の出来事として演じられ映されるのだが、その恋愛の中心となる男女は、物語の開始時点で既に死んでいる。さらには、もう一人の登場人物も、物語の終盤で死ぬ。その死を含むシークエンスはこの映画の最もネガティブな時間であり、またそのネガティブさに反して復調は早く、幸福感あふれるこの映画になぜこのネガティブさが必要だったのか、なぜ容易に復調されたのか、いまいち考えをまとめられていないのだが、それはともかく、映画においては、こうして死んでいくもの、喪われていくもの、それを再生させる縁として、井の頭公園が機能している。100年間存在する井の頭公園には、100年分が焼き付けられているのだ。そしてそれは、ハルのように、そこを訪れ、それを臨む者によって、再生される(夢、想像、小説、何であってもいい)のである。

 さらには、その再生は、記録的な、単なる過去の復元ではない。50年前の当人たちは死んでいる。ハルによって再生された50年前は、完璧な過去の復元であるはずがないし、完璧どころか、まったく違っている可能性さえあるのだ。不完全なオープンリールの音源を完成させようという純やトキオの奮闘にも同じことが言える。初め、彼らの「完成」させた曲は、ハルによって否定される。「ポップでダンサブル」を目指してエレキギターやラップやベースやドラムを加えたそれが、50年前、恋人に向けてアコースティックギター一本で弾き語られた曲の完成であるとは、確かに考えがたい。しかし、ネガティブなシークエンスを越えて、最後の最後に歌われるその歌と映像には、幸福感が蘇っている。そして、振り向いたハルは微笑む。最後に歌われるその歌は、単純に考えれば、50年前の歌の完成ではない。しかし、ハルによって再生された50年前の恋愛の物語と同程度には、再生である。そして、思えば再生という言葉は元来、生まれ「かわる」ことを意味している。物語において、公園は確かに再生させた。映画のように――井の頭公園の映画、公園の記録などと先に書いたが、映画もまた、撮影時の完全な井の頭公園を復元したりはしない。それは再生されるだけだ。

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