Jan 04

morgennebel.netを捨てる準備

2021年1月4日 朝霧

morgennebel.netを捨てる準備をしている。ブログを振り返ってみると、2009年から独自ドメインを持ち始めてレンタルサーバーでブログをやってきたようなのだが、かつては持っていた、公開したものは公開し続けたいという欲望が消え、ウェブサイトのデザインに対する関心も消え、どちらからも幼稚な完璧主義を感じるが、今となっては、どちらも捨てざるを得ない。加えてちょっとしたきっかけもあり、次の更新はせず、はてなブログにでも移ろうかと考えている(予定のURL)。


古い記事は基本的に読むに堪えないのだが、しかし今でも稀に読者が訪れるような記事は移そうと思っている。古い記事を眺めていると、他人の書いたような文章で、しかし懐かしい人からのコメントがあったりして、不思議な気持ちになる。ほとんどの懐かしい人はもう私の書いたものを目にしたりしないのだろうが、一方で、今でもたまに交流のある人もいる。ありがたいものだ。昔はSNSで普通に生きていては関わりようのない人と関わることができて、楽しいものだった。

カテゴリー:挨拶.
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Mar 01

「#ゆーふらいと」 テラシマユフから寺嶋由芙へ

2014年3月1日 朝霧
B00HJ52L5G ♯ゆーふらいと [初回限定ビジュアル盤]
寺嶋由芙
AVOCADO records 2014-02-25

 昨年の五月だったか、テラシマユフがBiSから脱退した。彼女はBiSのエースだったわけで、脱退はBiSにとってもある程度の痛手であっただろうが、それはテラシマユフにとってもある程度の痛手であったはずだ。

 BiSはもう最初っから、メタアイドル的な(それでもアイドルの枠組みに回収されるのだが)戦略を持ったグループで、『アイドル10年史』の中のインタビューでプー・ルイが「とりあえず友情みたいなのがやりたかった(笑)。喧嘩をして涙したり、合宿してみんな揉めたりとか。」と語っているように、真相は別にして、「アイドル」を「やろう」としている「アイドル」、という構造があった。その構造に沿ってBiSは数々の脱退、内部抗争を「演出」してきた。テラシマユフの脱退「劇」も、真相は別にして、解散という結末に向かうBiSの物語の枠組みに収まっているということになるのだろう。

 「テラシマユフ」という名は、「プー・ルイ」に始まるBiSのメンバーのフォーマットに合わせてカタカナ表記になっていたわけで、脱退後の最初の仕事?ミスiD2014においては既に「寺嶋由芙」と漢字表記になっていた(Wikipediaによれば(!)、BiSに入る前には寺嶋ゆふという名義で歌っていたらしい)。ミスiDという、よくわからない新人発掘プロジェクト(失礼)。出ているのは各界である程度の名前のある女性たちだったりもするのだが、アイドルという文脈においてはやはり新人ばかりである。その中で、BiS時代に既にメジャーデビューしていた彼女は、アイドルとしての知名度はおそらくトップだった。しかしそれは、「テラシマユフ」の名で、ということである。「寺嶋由芙」という名は、「テラシマユフ」と比べればもうまったく広がっていない。2014年3月1日現在、Google日本語入力で変換できないし、検索の予測候補にも出ない。彼女が「テラシマユフ」でなくなるということは、引き継ぐものはあれど、ブランドを捨てることを意味していた。

 さて、そんな寺嶋由芙のファーストシングル「#ゆーふらいと」である。曲名を呟くとハッシュタグになるという巧みな商業的戦術(しかもちょっとパクりにくいだろう。これは見事)はさておき、曲調はニコニコ動画でちょっと前によく聴いた音楽(ryoとか)やらアニソンやらを彷彿とさせる(その起源は知りません……)もので、無難だが受け入れやすい。

 気になるのはやっぱり歌詞で、昔BiSの「primal.」について(これ、昔のものなので恥ずかしいのですが)、やはり歌詞を対象にうだうだ考えた際、よく知られた、というか戦略的に公表されてきたBiSの物語に歌詞が沿っているというような感じを受けたのだが、この「#ゆーふらいと」の歌詞も、BiS脱退劇にまつわるよく知られた話に沿っている、というか、関連付けて解釈できるようになっている。

 「#ゆーふらいと」、歌い手の名を冠したこの曲は、テラシマユフから寺嶋由芙へのフライトを歌っているのではないだろうか? 「嫌すぎた 何かになり続けられない」「まだまだ ひとりきり 戦わなきゃなの」「理不尽もなれっこだって笑えるよ」といった歌詞が容易に彼女の脱退劇を連想させるのは誰の耳にも明らかだ。そして、「甘いお守りがなくなるのはちょっと不安で でも振り返らず進め…飛べ…いま…!」といった部分が、ソロアイドルとして活動を再開した彼女の状況とわかりやすすぎる程重なる。そして、歌われるフライトは、「靄ける世界」を飛び越えるのだ。テラシマユフを辞め、「靄ける」数ヶ月を経、寺嶋由芙に着地する彼女に、やはり重なる。「「#ゆーふらいと」をどんな風に聴いてもらいたいと思ってますか?」という問いに彼女はこう答えている。

ゆっふぃー たぶん私のことを知って聴いてくれる人が多いからそう言う人には今までのことが重なっちゃうのはあると思うけどそうじゃない人にも届くといいなと思ってて。グループを辞めてから来てくれるようになった女の子で、私が辞めることや辞めてから活動してた時期に自分も会社で辛いことがあったり色んな決断を迫られたことが重なってたって。結局その子もそれに区切りを付けて今すごく充実してて「由芙ちゃんが頑張ってる姿を見て元気をもらえたからありがとう」って言ってくれた子がいて…あんだけの辛い事があったんだからタダでは終われないッて言うか。

「#ゆーふらいと」インタビュー ミュージック・インサイト

 これがそこらのシンガーソングライターやらの事情とちょっと違うのは、作詞は夢眠ねむ、というところで、しかも先に引用したミュージック・インサイトの記事によれば、事前の打ち合わせはなかったという。今まで真相を別にしてきたのに、ここだけ事実として捉えるのもどうかという気もするが、夢眠ねむも、BiSやメンバーの発信していた物語からこの歌詞を書いた、ということだろう。夢眠ねむはご存知のようにアイドルで、内側の存在で、ファン以上に情報のある可能性、もあるのだが、この歌詞がテラシマユフ/寺嶋由芙の公開されている物語に沿っているとすれば、物語と歌詞、という構造は、「primal.」と大差がないということになる。どちらも、一般公開されている物語に沿って、感傷的になりつつ、乗りこえて進み続けることを歌っていた/いる。

 「primal.」がBiSにとって「特別な一曲」であるように、寺嶋由芙にとって「#ゆーふらいと」が「特別な一曲」になるだろうことは想像できる(彼女の活動がBiS並に続けばだが……そうなるよう祈っています)。アイドルに押し付けられる物語(アイドルという物語を押し付けられる、と言った方がわかりやすいか)に苦しめられた(らしい)テラシマユフ/寺嶋由芙は、それでも物語を着続けるようである。テラシマユフ時代からの一ファンとしてはやはり嬉しく、大学で見かけたこともあった一後輩としては、心配でもあり。

補足:
この記事にはあまり関係ないですが、BiS含め、「アイドルらしからぬ」アイドルがアイドルの標準スタイルである、といった分析を香月孝文(「アイドルらしさという幻想 ――拡散する”アイドルらしからぬ”言説――」『アイドル領域Vol.4』)という方がしていて、おもしろいです。
ダンスもまた、アイドルオタクには受け入れやすいもので良いなと思っていたが、アイドルダンスの大御所竹中夏海らしい。彼女は『IDOL DANCE!!! 歌って踊るカワイイ女の子がいる限り、世界は楽しい』という本を出していまして、おもしろいです。アイドルダンスを考える参考に。
テラシマユフの脱退劇について、知ってる体で語ってますが実は全然詳しくなくて、それは僕の考えるアイドルとの健康的な距離感、的なものを保つためにあえて調べなかったからなのですが、興味のある方はググってみるとすぐに出てきます。物語は隠されていないのです。
歌詞は公式サイトにアップされているものに拠りました。

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Feb 28

文学に入門するための本

2014年2月28日 朝霧

 間違えて文学部に入ってしまう、という事態は実は往々にしてあり得る。文学部にしか通らなかった、国語が好きだから、数学が嫌いだからーーそんな「だから」は、実はありふれているのではないか? そうした、間違えて文学部に入ってしまった人に、そして、間違って文学にやる気を出してしまった人にもとりあえず薦めたい、文学入門書。この本を読んで文学部に決めました、なんて人が出るとかわいそうなので文学部に入る前の人間には薦めない。
 下に行くほど、難しい、というわけでもないのだが、だんだん専門的になっていきます。

4796659048 『ホラー小説でめぐる「現代文学論」―高橋敏夫教授の早大講義録』
高橋 敏夫
宝島社 2007-10-06

早大文学部で実際に開かれている講義の記録なのだが、とにかく「まえがき」が良い。文学部で文学をするとはどういうことか、これほど的確に表現している文章もないだろう。文学なんて役に立たない、と思ってしまったときに読むと良い。内容は学部一・二年生向けの理解しやすい批評だが、現代の文学理論の基礎とでも言うべき「異化」への道標もしてくれる。

4004310245 『小説の読み書き』
佐藤 正午
岩波書店 2006-06-20

文学、言葉の芸術を扱うとき、まず知っておかなければならないのは、「書く」とはすなわち「書き直す」ことである、という当たり前の事実であるーー『小説の読み書き』はこのテーゼに従って作家である佐藤正午が小説を読んだ実践である。この本における実践程度の読みもできない者が、狭義の文学(純文学?)の系譜に連なる小説を書くのは、不可能であると言っていい。「書く」ことは「書き直す」ことである。それは、書いたものを「読む」必要があることを意味するからだ。

489476525X 私学的、あまりに私学的な 陽気で利発な若者へおくる小説・批評・思想ガイド
渡部 直己
ひつじ書房 2010-07-26

文学を勉強してみようと思った人に・恥ずかしいレポートを書かないために、高校生でも理解できるコラムから院生レベルの研究実践まで。後半の論文などは別に読む必要もない、というくらい専門性の高い研究であるように、私には思えるのだが、それはともかく巻末の必読書リストが(それはどうだろう、というのも混じっているが)けっこう役立つ。特に小説に関してはさすがにやはり良い本ばかりだなぁという気がします。

448009279X 現代思想の教科書 (ちくま学芸文庫)
石田 英敬
筑摩書房 2010-05-10

その名のとおり現代思想の教科書で、メディア論からフーコー、精神分析まで、現代思想の最先端をある程度カバーしている。あくまである程度で、今となっては足りない気もするのだが、一冊で扱っている範囲としては広いだろう。今、文学をやるなら、どれも知って(身につけて)おかなければならない基礎事項である。

4906388019 読むための理論―文学・思想・批評
石原 千秋 木股 知史 小森 陽一 島村 輝 高橋 修 高橋 世織
世織書房 1991-06-15

現代の文学研究のほぼ前提となっているテクスト論、その理論のまとめ。もちろんヨーロッパ発祥のテクスト論を輸入してくれた先人研究者に感謝しつつ、この書の中の理論は当たり前のものとして、発展させていくことを考えていかなければならないのであるが、しかし単に利用するだけでも十分なレポートが書けるはずだし、学部を卒業くるくらいならこれくらいの知識で良いのでは、という気もします。

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Feb 25

きたまり+Offsite Dance Project共同プロデュース『RE/PLAY(DANCE Edit.)』

2014年2月25日 朝霧

きたまり+Offsite Dance Project共同プロデュース『RE/PLAY(DANCE Edit.)』
多田淳之介演出、2014年2月14-16、急な坂スタジオホール

 14日、雪の中野毛山(でいいのかな…)を上り、観ましたので考えたことの断章的にメモ(まとめられないだけ)。私は『再/生』からの一連の上演を観ていないので、『RE/PLAY』からしか考えることができないのだが。うろ覚えになってしまって、ダメですね。こういうのはやはり観てすぐ書き始めなければな、と思いました。

 「TSUNAMI」の再生からパフォーマンスは始まった。一度目は、少しずつ音量を上げて行きながら、二度目は、音が途中で途切れる、といったエラーを含みつつ、やはり少しずつ音量を上げて行きながらであった(最後にはちょっと自分の耳が心配になるくらいものすごく大きな音になる)。その間八人のダンサーは歩き、それぞれのポーズを取り、倒れた。
 次に再生されたのは「Ob-La-Di, Ob-La-Da」であり、その間ダンサーたちはそれぞれの振り付けを踊る。この曲は10回繰り返し再生された。その間、ダンサーたちの動きは徐々に激しくなっていったように見えた。また曲の音量も少しずつ上がっていった。
 「Ob-La-Di, Ob-La-Da」の動きが終わったあと、ダンサーは8人並び、観客席の方を見つめた。それからまた冒頭と同じように歩き、ポーズを取り、倒れるという動きを始めたが、その間彼らは、「みんな飲み物持った」「横浜公演おつかれ」といった、打ち上げの飲み会らしきやりとりを声だけでしていた(店員の発言らしきものもあった)。
 それから、相対性理論の「QMSMAS」があり、「ラストダンスは私に」(おそらく)があり、「GLITTER」が二度あった。「GLITTER」はクライマックスにふさわしい激しい振りの付いたダンスであった。一度目が終わってダンサーは皆息を切らしながら倒れ、そして二度目が始まってからまた立ち上がり、彼らは踊りだした。
 
 「TSUNAMI」は、容易に2011年3月11日、日常を押し流したあの津波を思い出させる。当時、「TSUNAMI」は放送自粛される程だった。その「TSUNAMI」を冒頭に持ってくる意図は、あまりに理解されてしまいやすい。あまりに安易であるようにも思う。しかし、津波から始められなければならないのも十分に分かる。2014年現在、津波を超えて、日常は「再生」されたように見える。
 「再生」とは何だろうか?
 このパフォーマンスに従って、「再/生」、「再」と「生」に分断してみよう。そうして、舞台芸術における「再生」を考えると、この語の孕む矛盾が見えてくる。すなわち、「生」一回性と、「再」再現性の矛盾だ。この二つの相反する性質は、演劇、ダンスといった舞台芸術の孕む原理でもあるだろう。それらの芸術において、多くの場合、一回限りの生の上演を、期間中再現し続けることになる。しかしその再現は、「再生」ではありえない。再現性が求められていながら、厳密に言えば、一回一回のパフォーマンスを再現することは決してできない。そこには必ず「生」の差異がある。
 『RE/PLAY』は、そうした再現の不可能性を凝縮しているように見えた。例えば10回繰り返されたBeatles「Ob-La-Di, Ob-La-Da」。10回繰り返した、というが、1回1回には必ず差異があっただろう。しかし、それが後半になって、動きが激しくなってきてからしか、そこに差異があることに私は思い至らなかった。彼らは確かに、同じ振り付けと言ってよい動きを毎回行っていたのだが、よく見れば、明らかに強調され、同じ振り付けとは言えない動きになっているものもあり、ダンスを見慣れている者はより多くの差異を各回の中で見つけることができただろう。
 そして「GLITTER」である。激しい踊り故に、一度目の終わった段階でダンサーたちの息を整える音が客席にも聞こえてくる。しかし「GLITTER」の再生が再び始まると、彼らは立ち上がり、再び踊る。その振り付けにも差異があったはずだが、私にはどこが違った、と言うことができない。しかし、その合間に、踊っているときと同様無表情のまま、ダンサーのうちの一人が息を切らしつつ客席を見つめる場面が何度かあった(一回目と二回目で違う者がそうしていたはずだから、やはりダンサーの動きは異なっていたらしい)。その視線は、無表情であるために逆説的に、観客に何かを訴えかけているように見えてきてしまう。本当に、ダンスを見ているのか? ――彼らが実際にそう問うているわけではないが、しかし私はその視線をそのような問いとして捉えてしまう。曲の1回1回、繰り返されるダンスを、私は「繰り返されている」、曲と同じように「再生」されているものとしてしか観ることができない。しかし実際には、ダンスが激しくなって、誰の目にも差異の明らかになる前にも、「生」である故に生じるエラーだけでなく、計算された差異があったはずだ。それは、実際に踊っている者には切実な差異、確実に再現しなければならない差異だろう。しかし私に見えてきたのは、「Ob-La-Di, Ob-La-Da」が8回、9回も繰り返された後だった。
 また、横浜公演の打ち上げのシーンも、「再生」の概念を揺さぶる。しかし私が観たのはそもそも一回目の横浜公演であって、その打ち上げの中の会話は「再生」であるはずがない。しかし、私はまずそれを打ち上げの「再生」と考えてしまう。もし二回目や、後日の公演であれば、「再生」であることを疑いもしなかっただろう。
 日常の「再生」。日常は反復で成り立っている。「Ob-La-Di, Ob-La-Da」、「Life goes on」と何度も何度も繰り返されたように。しかし、反復、「再生」のように見える日常は、あるいは危険な差異を持つものかもしれない。3月11日の津波は、『RE/PLAY』の「TSUNAMI」における明確なエラーのように、明確すぎる「再生」のエラーであっただろうが、しかし、じわじわと大きくなっていく差異に、我々は気づけるだろうか? だんだんと激しさを増していった「Ob-La-Di, Ob-La-Da」を、何に重ねるか。

 感想として……多田淳之介はやはり恐ろしい。『シンポジウム』でも感じたことだが、どこか観客を試しているというか、馬鹿にしてるというか、そういう感じがある気がする(もちろん良い意味で)。息をきらしながら無表情のダンサーの観客を見つめる目、『シンポジウム』でじっと無言で無言の観客を見つめていた多田淳之介――。
 あと、彼は本当に音楽の意味合いを変えてしまう。「GLITTER」を多田淳之介演出作品を思い出すことなく聴くことはできなくなったし、『RE/PLAY』のせいで「Obladi Oblada」が恐ろしい。恐ろしく、そしてなぜかリピートしてしまいたくなる。
 客席にいた女性がダンスを観て笑っていたのが印象的だった。おそらく彼女は小劇場の俳優(どこかで観たことある)で、おそらく舞台に知り合いがいたのだろうが、知っている者がああした動きをしていれば笑ってしまうだろうな、と思わされた。私には、無表情で淡々と行われる、そして繰り返されるダンスは恐ろしかったのだが、少し距離感を変えてみると、確かに滑稽だし笑えてしまう。

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