Jan 04

男子は友人を知らない——米澤穂信『本と鍵の季節』

2019年1月4日 朝霧

 女子どうしの友情と比べると、男子どうしの友情は淡泊なものに見える。身体的接触は少なく、余程のことがなければ贈り物なんてしないし、電話で雑談なんてしないし、たとえ親友であったとしても、年に数回会えば十分だと感じていたりする。そして、友人について知っていることは、かなり限られている。

 『本と鍵の季節』はいわゆるミステリーだが、読んでいればなんとなく答えを察することのできる謎ばかり、「探偵」による解明もあっさりで、解き甲斐のある大きな謎が出てくるわけではない(ミステリー読者にとって解き甲斐のある謎というものがどういうものなのか、私にはわからないのだが……)。主題はむしろ、男子どうしの、一見淡泊なその友情にある。主人公は図書委員である二人の高校生男子だが、クラスの違う二人が図書室で会うのは週に一度。外で会うのは用事のある時や謎を解明するのに必要な時だけで、遊びに行ったというような描写はない。
 しかし、では、二人は仲が悪いのだろうか。男子たる私には、そうではないと言い切れる。むしろ、信頼し合い、友情を疑うべくもなくなって初めて、淡泊な付き合いをし続けられるようになるのだ。自分の知らない一面をまざまざと見せつけられようとも、友達であり続けられるようになるのだ、と二人の男子高校生の物語に、再認識させられた。

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Nov 29

中学生が一人で国語を学ぶための本

2018年11月29日 朝霧

不登校歴の長い中学生に、一人で勉強するための問題集がほしいと言われ、仕事の帰りに書店で探した。漢字なんかは東京ベーシックなどインターネット上にある教材で十分に自習できる。その子のレベルに合わせて、その子でも読めそうな説明・解説のついた、文章読解問題の載っている本。大事なのは一人で続けられることであって、できれば国語や読書に興味をもてるようなものが良い。

①『やさしくわかりやすい中学国語
初めの方のレベルは程よいが、終わりの方は受験テクニックじみてきて、難しい。文章読解に関してはバランスがよい。ただ、問題を解く前に考え方や知識事項を伝えるための説明が、やや難しく(国語がある程度できる子であれば、十分読めるのかもしれないが)、補助が必要になるように感じた。

中学生のための人気作品で学ぶやさしい文章読解
「人気作品」とは小高学年〜中高生くらいの読む小説のことで、評論文がないのが残念なのだが、レベルは程よい。また問題を解くためのヒントがあったり、解説が話し言葉であったり、抵抗感を減らす工夫もよい。なにより、何かグッとくる小説の一場面があったりすれば、読書に興味をもてるかもしれない。漫画も載ってる。表紙もかわいい。というわけで、その子にはこの本を薦めた。

やさしくまるごと中学国語
詳しい。文法事項から文章読解までおさえていて、良さそうな本ではあった。見ていないがYouTubeで解説動画を見ることもできるらしい。しかし、いきなり文法なので、その子がやる気をもって取り組むには厳しいと感じた。分厚さも、抵抗感を抱かせそうな気がし、この本を紹介するのはやめた。

しかし思うのは、①や②のような本の解説でも、勉強経験の積み重ねられていない子にとっては、一人で理解するには難解すぎるのではないか、ということである。書いてあることを、私がゆっくり噛み砕いて話せば、あるいは伝わるのではないかという気はするが、一人では、単語の羅列にしか見えないのではないか? 文章や、映像でも、一方的な伝達では学ぶことのできない段階の子供たち、それも義務教育を終えるような年齢で、そういった段階の子供たちと、対話をする大人がいるということの大事さである。

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Apr 18

近況/書くことについて

2018年4月18日 朝霧


とにかく金がなく「New arrivals」も何もあったものではない。そして精神状態が悪くろくに本も読めない。積読から読める本を探し出し読んでは投げる日々である。

積読から『プレーンソング』を読んだ。金に余裕のある社会人と金のない学生ではない二十代の青春。学生の青春がきつくなってきた僕には良かった。積読から「春昼」を読んだ。読めない。しかし泉鏡花の偉大さはわかる。積読から村田喜代子『名文を書かない文章講座』を読み始めた。最近は一月に修論、三月に小説を一つ書き上げた以外には何も書けず(インプットが少ないというのも大きいが)読んでもやはり書けそうにないのだが、しかし最初の数ページを読んだだけでこうしてブログ記事を書いているのだから効果があったと言うべきか。

そういえば村田の本もそうだが、ここ一、二ヶ月は書くことについての本を続けて読んでいて、ほとんど読み直しなのだが、高橋源一郎『一億三千万人のための小説教室』保坂和志『書きあぐねている人のための小説入門』宮原昭夫『書く人はここで躓く!』村上春樹『職業としての小説家』レイモンド・カーヴァー「書くことについて」(『ファイアズ(炎)』所収)スティーヴン・キング『書くことについて』などを読んだ。

いつか書くことについて書く人々がどう書いているかまとめてみたいものだが、響くのは保坂、春樹、キングの本で、共通するのは一日何時間何枚書くかを明確に示しているところである。書き方とは、つまるところ一日何時間何枚書くかに尽きる。しかし三月に一作書き上げたのは高橋の本のおかげだったかもしれない。高橋の本もなかなか抽象的なのだが、なぜか書いてみようという気にさせる。『一億三千万人のための小説教室』は高橋の小説よりも好きな本となった。

春樹とキングの本は自叙伝めいたところがあり作家のファンとしても楽しめる。小説を書くことについては、高橋と保坂の本が良い。この二冊に共通するのは、抽象的であることだ。宮原の本や他のハウツー本には具体的なテクニック(キャラクターについて、ストーリーについて)が書かれていたりするのだが、そういうものはあまり役に立たない(小説を書きたい人間は、実践できるかはさておき、それくらいのことは知ってしまっている)。カーヴァーの「書くことについて」は短いエッセイだが、作家についての名文があるので引用しておく。

たとえ阿呆のように見えるとしても、作家というものはときにはぼうっと立ちすくんで何かに——それは夕日かもしれないし、あるいは古靴かもしれない——見とれることができるようでなくてはならない。

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Feb 07

アースシーの魔法=哲学と物語——『ゲド戦記』

2018年2月7日 朝霧

作家アーシュラ・K・ル=グウィンは『ゲド戦記外伝』の「まえがき」でこう語っている。

まったく実在したことのない、つまり一から十まで完全に虚構の世界を構築、あるいは再構築するときは、そのための調査研究は実在の世界のそれとは順序がいくぶんかちがう。けれど根底にある衝動や基本的な技法に大差はない。まず、どんなことが起こるか、見る。そして、なぜ起こるのか、考える。その世界の住人がこちらにむかって話すことに耳をかたむけ、彼らが何をするか、観察する。次にそれについて真剣に考え、誠実にそれを語ろうと努める。そうすれば物語はちゃんと重力を持ち、読む者を納得させるものになっていく。

ファンタジーの古典的傑作を三つ挙げるとすれば、出版順に、『指輪物語』、『ナルニア国物語』、そして『ゲド戦記』であるとよく言われる。『オズの魔法使い』が入ったり、最近では『ハリー・ポッター』がもはや古典と呼ぶべき作品となっているが、『ゲド戦記』は例えばその『ハリー・ポッター』の世界観にも大きな影響を与えている。そのような意味で『ゲド戦記』は間違いなく古典的であるのだが、その古典的凄みはやはり、その強靱な哲学の構築(調査研究)と、それを基盤とする強靱な物語から来ている。

『ゲド戦記』と、邦題(原題は『Earthsea』(アースシー)で、物語の舞台である世界の名でもあり、その海と多くの島々からなる世界にふさわしい名だ)にその名を冠しているゲドは、比類なき力を持った魔法使い(大賢人)として設定されており、主人公として、あるいは重要な補助役として活躍するのだが、しかしその力には限界がある。そして、『影との戦い』から『さいはての島へ』に至るまで、協力者にめぐりあうことで、どうにか危機を脱するのである。協力を得、危機を克服するという、よくある・あるいはできすぎた物語だと言えばそのとおりなのだが、しかし、このような物語は、『ゲド戦記』においては哲学でもある。体系的な哲学に従っているからこそ、『ゲド戦記』の物語はできすぎているのだ。

『ゲド戦記』の哲学は魔法や竜について語られることによって語られる。「古のことば」や「神聖文字」といわれる、特別な言語によって発動する魔法は、どこか世界のプログラミング言語を思わせSF的でさえあるのだが(実際にル=グウィンはSFにも傑作を残した)、そこでは、光と影、生と死、ことばと静寂といった二項対立と、その均衡、あるいは弁証法が大きく作用している。『ゲド戦記』の世界アースシーにおける魔法は何でもできる力などではなく、様々な二項対立の均衡の中で、特別なことばによって行われる。言い換えれば、均衡を破ることも、そのことばを超えたこともできない。そうした魔法である。

その在り方は、二項対立とともに発展してきた哲学の組み立てにも似ているように思う。そしてそうした魔法を基盤に展開される物語は、哲学の展開にも似ている。それが定番の物語に帰着するのは、哲学が弁証法的に進んでいくかのようだ。つまり、アースシーにおける魔法=哲学に従って物語が展開されるからこそ、物語にはあるべきところにあるべきものが、いるべきところにいるべき者が配置され、なされるべきことがなされるのだ。『影との戦い』から『さいはての島へ』までに繰り広げられた二項対立と弁証法の哲学は、『帰還』以降ではフェミニズム批評、脱構築批評にさらされもするが、それさえ魔法=哲学体系の強化に過ぎない。『A Wizard of Earthsea』(『影との戦い』)の冒頭に付された詩は、こうした二項対立を基とする魔法=哲学体系を簡潔に表現したものであると言えるだろう。

Only in silence the word,
only in dark the light,
only in dying life:
bright the hawks’s flight
on the empty sky.
——The Creation of Ea

『ゲド戦記』の魅力はその強靱さにある。『影との戦い』から一貫して、その強靱さが傷つけられることはなく、むしろ強められていく。ル=グウィンの語るように、こうした確固たる体系を構築し、「調査研究」された上で物語られることこそ、ファンタジーの傑作の条件であり、古典の条件だろう。

※2018年1月22日、この偉大な作家アーシュラ・K・ル=グウィンの死。その前後、僕は不思議と(というか、ジブリ映画のテレビ放映の話を耳にしたからだろうが)『ゲド戦記』を読んでいた。『ゲド戦記』の緻密に構築された哲学体系には生と死の厳しい二項対立があり、「影との戦い」から明示的に、隠喩的に、繰り返し物語られるものの一つに、その止揚/あるいは脱構築がある。作家の死の前後に『ゲド戦記』を読んでいたことは、作中で魔法使いらが偉大な賢人の死を察知するように、何か偉大な作家/作品の魔術的な力がそうさせたのではないかと、つい考えてしまった。

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