「お父さん、直実さんが東京から帰ってきましたよ」
 介護師の佐倉さんが言うより早く、直実は靴を脱いで実家に上がった。すぐに無駄に広い和室に行き、正座をして、仏壇に手を合わせる。母の写真が優しく直実に微笑みかける。財布からなけなしの一万円札を一枚置いて、居間に行った。
「父さん、ただいまー」
 厚いコートをハンガーに掛けて、こたつの中に足をいれた。窓の外は降り続ける雪で真っ白だ。
「直実さん、すいませんが、これで失礼しますね」
 父が何かを言うより早く、佐倉さんは帰り支度を済ませていた。直実が到着したら、佐倉さんは帰る、というのは、一週間前からの打ち合わせだった。直実ははーい、と言って、佐倉さんを追い出した。夕食は作ってくれておいたらしい。佐倉さんが帰ってからようやく、父は口を開いた。
「この雪ん日に、よお帰ってきたなぁ」
「まぁねぇ。お父さん、ただいま」
 父は水戸黄門から目を離さない。耳がより遠くなったのだろう、音声がすごくうるさかった。
 ガタガタと、ガラス窓が吹雪に揺れる。にゃあ、と、一昨年からこの家の床下に住み着いている猫の、猫らしい鳴き声が聞こえる。佐倉さんが、勝手にミュウちゃんと呼んでいる猫だ。父はテレビを消した。
「ご、ご飯、食べるよね」
 声が裏返った。父は遠くを見ながらうなずく。直実は立ち上がり、セーターの袖で目を軽く拭い、台所から佐倉さん料理を持ってきて、置いた。父は料理に目をやり、手を合わせて、頂きます、と小さく呟いた。父は箸を器用に操り、柔らかい煮物を口に運ぶ。
 長生きすることの意味を、直実はふと考える。するとまた、涙が出そうになって、直実はバッグから赤地に金文字の洒落た包みを取り出した。油性ペンで、「お父さんへ なおみより」とハートを描いた、包み。
 父の食事を見ていることに、直実は耐えられなかった。父のゆっくりすぎる食事を止めて、直実はその包みを渡した。わたしの最高傑作、と言ったつもりだったが、もしかしたら言えなかったかもしれない。
「あの、チョコレート。わかる? そりゃわかるよね。はは……」
 わざとらしく笑ってしまった。既に涙腺は限界みたいだ。初めての、そしておそらく最後の、父親へのバレンタインチョコ。その可能性を示したあのやぶ医者の顔は、もう二度と見ないだろう。
 父は箸を置いて、包みの、直実の文字をゆっくりと読み、ゆっくり破いた。箱を開けて、歪な形の、全力で溶かして全力で工夫したチョコレートの一つを手に取り、口に運んだ。直実は父の隣まで行って、彼の背中を擦った。
「おいしいでしょ? うまいでしょ。二月十四日はね、女の子が好きな男の人に――」  父は、それぐらい知ってる、と、チョコレートをもう一つ取りながら言った。直実は笑って、そうだよね、と呟く。
「ありがとう、なおみ」
 直実は父の背中にまわって、セーターで目を再び拭う。そして抱きしめた。父は何も言わない。知らん顔だ。けれど、何かを感じてくれているはずだと、直実は思う。
「うん……ごめんお父さん。お父さん……うち、明日には帰るの……」
 父はゆっくりと首を縦に振る。春にまた帰ってくるから、と直実は言う。父はゆっくりと首を縦に振る。
「ああ、なおみ、ありがとう」
 なおみは父の背で顔を拭かせてもらい、どういたしまして、と言った。父は三つ目のチョコレートを取った。



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