その浜辺はとても広く、どこまでも空虚な空間だった。海は砂丘の先に隠れ、砂漠の真ん中に寝転んでいる気分になる。波の音だけが僕の現在地を示すものだった。実際には、海は砂丘を一つ越えるだけで見える。
 この砂漠の真ん中にあるこの僅かな岩肌が、僕の毎日だった。日が暮れるころにここに来て、月が沈むまでずっとここにいることが多かった。人の気配を感じたことはなかった。
 彼女の音を聞くようになったのは……夏の終わりごろだった。新しい高校への転入手続きも済み、家ではただ食べて眠り、故郷にいたときの恋人のために弾いていたヴァイオリンを触ったりするだけだった僕に、正しい日付はまったくわからない。
 彼女の音を初めて聞いたのは、満月の夜だった。弦楽器の音がした。きちんとしたヴァイオリンの音を鳴らすのはまれで、金切り声や掠れ声ばかりだったけど、すぐにヴァイオリンだとすぐにわかった。弱々しく響くそれは、何の旋律も奏でなかった。
 下弦の月の下、高いソプラノの歌声が聞こえた。知らない歌だったけど、きれいな歌だと思った。ヴァイオリンの音とは違って、彼女の歌声は波の音にも負けず、月まで響いていた。
 月明かりが消えたころ、再びヴァイオリンの音が聞こえた。ただ弦を擦っているだけの演奏が長く続いた。僕は体を起こして、砂丘を一つ越えた。
 彼女はいた。海は満ちていた。白いワンピースを着た彼女は波打ち際に立って、海の方を向いて、きれいな姿勢でヴァイオリンを構えて、弓を動かしていた。僕はなるべく足音を立てて近づいていったけど、彼女は気づいてくれなかったようで、弓を動かし続けた。靴がすぐ近くに脱ぎ捨ててあって、彼女の裸足の足は青い水に浸かっていた。
 近づいてきたもののびっくりされたくなくて、僕は静かに去ろうとしたが、彼女はその演奏を止めた。そして、海を見たまま「こんばんは」と小さな声で言った。僕は振り向いて、彼女の方を見た。
「気づいてましたか?」
 彼女はゆっくり振り向いた。穏やかに、恥ずかしそうに笑っていた。

「今、気づいたのよ。こんな時間に、お散歩?」
「あぁ、はい……それ、ヴァイオリンですよね? 好きなんですか?」

 彼女は自分より少し歳上ぐらいに見えた。美しい長い髪に、白いワンピース、小さな裸足。

「大好き」

 違和感を感じる言い方だった。初めて使った外国の言葉であるような言い方。

「少し音がずれてますよ。合わせましょうか? 得意なんです」

 彼女は嬉しそうに僕にヴァイオリンを渡した。僕は彼女からヴァイオリンを受け取り、構えてみた。目をつぶって、弓を引き、勘で音を調えて、彼女にヴァイオリンを返そうとした。

「ねぇ、弾いてみてよ。何か」

 僕は目を細めた。眩しかったから。彼女は青い光をまとっている。そして、波のように揺れる光は、夜空に浮かぶ巨大な蒼い月から放たれている。
 彼女は笑っていた。僕は胸を締め付けられたような苦しさに襲われた。僕はヴァイオリンを構えた。弓を動かす。弦が震え、音楽を奏でる。懐かしい、思い出深い曲を、いくつも。時間は進まなかった。
 僕はヴァイオリンを下ろし、当然のように椅子に彼女を見た。月はさらに光り、蒼い太陽のようだった。反対に海は色を失い、底の砂や揺れる海藻を、たくさんの小さくて綺麗な魚や貝を映していた。違和感は感じなかった。
「ねえ、この海辺は、この世界は、すごく曖昧なの。ぜんぶ。地面も、海も、時間も、心も。あの蒼い月も。このヴァイオリンも、わたしも、ぜんぶ」

「…………僕は……」

 それしか声を出せなかった。深い水の中にいるみたいに、胸が苦しかった。彼女の声はどんどん遠くなった。月光がすべてを満たしていく。 「あなたは、あなたはそこに、確かに、存在しているでしょう?」





Neptune/あるいはある真冬の夜の夢

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