“雨が降れば彼女は、ここには来ないだろう”
 僕が中学生の時に習った、英語の例文。三年以上前のあの授業がなぜか、鮮やかに思い出された。髪の薄くなってきた、目が悪いのに矯正しない通称ピカル先生、英文の殴り書きだらけの黒板。黒板のすみには日直中嶋と書かれていて、帰国子女戸口さんのスーパーアメリカンイングリッシュ――誰もがそう呼んでいた――、親友山岡の話しかけてくる言葉、隣の席の酒井さんの独り言――そして、斜め前方の、ずっと「愛し続けた」美咲の、あの横顔。二本に緩く束ねた黒くて長くてまっすぐで、美しい髪。少し猫背の制服のブレザー。シャーペンをきれいに回し続ける右手の指先。「仮定法」という赤チョークの文字と、黒板に書き出される新たな英文“She won't come here if it rains.”。頻繁に落とす黒板消しを拾いながら、ピカルは美咲を指名した。
 そうだ。美咲が言ったのだ。“雨が降れば彼女は、ここには来ないだろう”と。冬が迫り、冷たい風の押し寄せる秋、東京。外れると評判の天気予報士の予報も、大手新聞社の天気図も、その日は雨が降ると言い切った。

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