「高架」
神業堂本舗第四回コンテスト
冒頭部分「2」
結果:参加予定
 それは、何かの店の様だった。古びた造りの建物は、本で見た一昔前のそれに酷似していた。
 好奇心なのか、何かの予感なのかは分からなかったけれど、なんとなく、ただなんとなく、気になってしまったのだ。
 本当になんとなく、何の店なんだろう、という程度に。

 それが彼からの、最後の手紙の冒頭だった。続きは知らない。私はそれを破って捨ててしまったから。彼はその手紙を最後に、それこそ、夢から覚めたかのように、私の日常から完全に離れた。もちろん寂しかったけれど、諦めはすぐについた。
 その手紙に記された日付よりもずっと前から、彼の心はすでに私のもとになかったのではないだろうか。彼に誘われ、あの店に二人で入ってしまったとき、私は彼と彼女の関係に気づいた。
 彼女は確かに、すばらしい女性だった。女優のように綺麗だとは思わなかったが、もちろん醜くもなかった。彼にとっては、いわゆるタイプの顔だったのかもしれない。そして彼女は、とにかく、雰囲気がきれいだった。たくさんの洒落た小物や、少しだけ置かれた淡い花の色合いの中で、彼女は控えめに、けれど確かに、強い光を放っていた。どことなくセピアのかかった店内で、白いワンピースを着た彼女が浮き上がっていた。
 彼の態度は、明らかに変わった。いくらいっしょにいても、彼の心は遥か遠くにあるように感じた。そしてたびたびその店へ出かけていき、やがて彼は私と会わなくなっていった。そして、数枚の読まれなかった手紙を最後に、私たちは別れた。

 私は娘にそんな話をしながら歩いていた。生後十一ヶ月の彼女はたまにタイミングの合わない相づちを打ちながら、私の背中に貼り付いて髪をいじっている。彼女は力強く引っ張ったりするから、最初のうちは怒ってみたりもしたが、彼女は決して止めなかったし、少し気持ちよくもあって、口にくわえるまではそのままにさせるようにしていた。私は我にかえり苦笑いをして、背中の彼女を持ち上げた。重いことは確かだけれど、ベビーカーは夫の待つ車に置いてきた。なんとなく、娘の重さが必要だった。
 その店はやはり、あった。新しい恋愛をして、結婚までしてみても、記憶は間違えなかった。私は小さな扉のドアノブに手をかけた。けれど、開けられなかった。何かが、私を止めた。
 たくさんの想いが私を襲った。切なさや喜びも、哀しみも怒りもあった。私はドアノブを回そうとした。
「すみません、今、開けますから」
 高い、けれど芯のしっかりした聞きやすい声だった。私は驚いて振り返った。両手に花瓶を持ち、肩にバッグをかけた女性だった。そして彼女は、まぎれもなくあの、女性だった。少し老けてはいたが、それは大人びたといっても良いくらいに美しいものだった。
 彼女は私の顔を見て、軽く首をひねった。そしてすぐに花瓶を店の前に配置し、バッグから鍵を取り出して店の扉を開けた。気づかなかったが、店は開いていなかったようだ。 「すいません、もしかしたら昔、来てくれませんでしたか?」
 店の奥に行き、店内の明かりを付けた彼女が言った。私は再び驚きながらも店の中に入り、扉を閉めた。何も、ほとんど何も変わっていなかった。昔と変わらない位置にあった古い椅子に腰かけた。そして娘を隣の椅子に降ろした。私は昔、来ました、と答えた。
「やっぱり! 覚えてますよ。加藤君といっしょに来てくださった方ですよね。私、母さんが死んだあと、この店の店長になったんですよ」
 加藤はもちろん、あの男の名前だった。
「結婚されたんですね」
 彼女は娘に微笑みかけ、嬉しそうに言った。そして、不思議な香りのするお茶を、「ユリです」と言いながら、手渡した。一瞬迷ったが、名前のことだと気づいた。
「確か、美咲さんでしたよね。加藤君から聞きましたよ」
 私はお茶を飲んだ。そして言った。
「加藤は、どうしているんですか?」
 彼女は聞きながら、お茶をゆっくり飲んだ。そして、驚いた表情をして答えた。
「死にましたよ? ……彼は最後の手紙に、書きませんでしたか?」

車の後部座席で、私は泣いていた。夫は何も聞かずに、車を運転してくれている。娘は私の泣き声などまったく気にせずに眠っていた。
 彼は、ユリさんの幼なじみだった。彼が偶然店を見つけて再開し、ユリさんは彼から相談を受けた。私についての。
 そのころにはすでに彼の身体じゅうに腫瘍があって、彼の死の期日は確定していた。そして彼は、ユリさんと相談して、私の前から、手紙を最後にひっそり消えることを選んだ。ユリさんはその話をしながら、泣き出した。私はごめんなさいと言って、一人店を出た。目を赤くしたユリさんが笑いながら走ってきて、娘を渡してくれた。私はそこで、泣き崩れてしまった。ユリさんがずっと傍にいてくれた。
 泣くのに疲れ気づいたら、娘まで泣いていた。私が彼女を抱きしめると、彼女はすぐに泣き止んで、私の長い髪を引っ張った。


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